れには緑の薄茶が一ぱいたまっていた。なるほど、このていたらくでは襖をとざして人目を避けなければならぬ筈であると、はじめて先生の苦衷《くちゅう》のほどを察した。けれどもこんな心細い腕前で「主客共に清雅の和楽を尽さん」と計るのも極めて無鉄砲な話であると思った。所詮理想主義者は、その実行に当ってとかく不器用なもののようであるが、黄村先生のように何事も志と違って、具合いが悪く、へまな失敗ばかり演ずるお方も少い。案ずるに先生はこのたびの茶会に於いて、かの千利休の遺訓と称せられる「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて、飲むばかりなるものと知るべし」という歌の心を実際に顕現して見せようと計ったのであろう。ふんどし一つのお姿も、利休七ケ条の中の、
一、夏は涼しく、
一、冬はあたたかに、
などというところから暗示を得て、殊更に涼しい形を装って見せたものかも知れないが、さまざまの手違いから、たいへんな茶会になってしまって、お気の毒な事であった。
茶の湯も何も要《い》らぬ事にて、のどの渇き申候節は、すなわち台所に走り、水甕《みずがめ》の水を柄杓《ひしゃく》もてごくごくと牛飲仕るが一ばんにて、これ利休の茶道の奥義と得心に及び申候。
というお手紙を、私はそれから数日後、黄村先生からいただいた。
底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1989(昭和64)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
※底本は、「七ヶ条」の「ヶ」(このファイルでは、区点番号5−86で入力)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:夏海
2000年11月17日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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