?」
「よく学び、よく遊べ、というやつか。その着想は、しかし、わるくないね。」
「そんなら、僕の家へ、何の意味も無く、遊びに来てくれてもいいじゃありませんか。きたない家ですけれども、浜からあがりたての、おいしいおさかなだけは保証します。」
私は行く事にした。
私の疎開していた町から、汽車で三、四時間、或る港町の駅に降りると、小川新太郎君は、りゅうとした背広服姿で、迎えに来ていた。
「君は、こんないい洋服を持っているくせに、僕の家へ来る時には、なぜあんな、よごれた軍服みたいなものを着て来るのかね。」
「わざと身をやつして行くのです。水戸黄門でも、最明寺入道でも、旅行する時には、わざときたない身なりで出かけるでしょう? そうすると、旅がいっそう面白くなるのです。遊び上手《じょうず》は、身をやつすものです。」
旧暦のお正月の頃で、港町の雪道は、何か浮き浮きした人の往き来で賑《にぎ》わっていた。曇《くも》っていた日であったが、割にあたたかで、雪道からほやほや湯気が立ち昇っている。
すぐ右手に海が見える。冬の日本海は、どす黒く、どたりどたりと野暮《やぼ》ったく身悶《みもだ》えしている。
海に沿った雪道を、私はゴム長靴で、小川君はきゅっきゅっと鳴る赤皮の短靴で、ぶらぶら歩きながら、
「軍隊では、ずいぶん殴《なぐ》られましてね。」
「そりゃ、そうだろう。僕だって君を、殴ってやろうかと思う事があるんだもの。」
「小生意気に見えるんでしょうかね。しかし、軍隊は無茶苦茶ですよ。僕はこんど軍隊からかえって来て、鴎外《おうがい》全集をひらいてみて、鴎外の軍服を着ている写真を見たら、もういやになって、全集をみな叩《たた》き売ってしまいました。鴎外が、いやになっちゃいました。死んでも読むまいと思いました。あんな、軍服なんかを着ているんですからね。」
「そんなにいやなら、君だって、着て歩かなけやいいじゃないか。身をやつすもクソも無い。」
「あまり、いやだから着て歩くのです。先生には、わからないでしょうね。とにかく旅行は、屈辱の多いものでしょう? 軍服はそんな屈辱には、もって来いのものなんだから、だから、それだから、わからねえかなあ、作家訪問なんてのも一種の屈辱ですからねえ。いや、屈辱の大関《おおぜき》くらいのところだ。」
「そんな生意気な事を言うから、殴られるんだよ。」
「そうかなあ、いやになるね。ひとを殴るなんて、狂人でなくちゃ出来ない事なんじゃないかな。僕はね、軍隊で、あんまり殴られるので、こっちも狂人の真似をしてやれと思って、工夫して、両方の眉《まゆ》を綺麗に剃《そ》り落して上官の前に立ってみた事さえありました。」
「そりゃまた、思い切った事をしたものだ。上官も呆《あき》れたろう。」
「呆れていました。」
「さすがにそれ以後は殴られなくなったろう。」
「いいえ、かえってひどく殴られました。」
小川君の家へ着いた。山を背にして海に臨んだ小綺麗な旅館であった。
小川君の書斎は、裏二階にあった。明窓浄几、筆硯紙墨、皆極精良、とでもいうような感じで、あまりに整頓されすぎていて、かえって小川君がこの部屋では何も勉強していないのではないかと思われたくらいであった。床柱に、写楽の版画が、銀色の額縁に収められて掛けられていた。それはれいの、天狗《てんぐ》のしくじりみたいな、グロテスクな、役者の似顔絵なのである。
「似ているでしょう? 先生にそっくりですよ。きょうは先生が来るというので、特にこれをここに掛けて置いたのです。」
私はあまり、うれしくなかった。
私たちは、机の傍の炉を挟《はさ》んで坐った。彼の机の上には、一冊の書物が、ひらかれたまま置かれていた。たったいままで読んでいたという形のつもりかも知れないが、それもまた、あまりにきちんとひらかれて置かれているので、かえって彼が、その本を一ページも読まなかったのではなかろうかという失礼な疑念がおのずから湧《わ》き上るのを禁じ得なかったくらいであった。
私が机上をちらと見て思わず口をゆがめたのを、素早く彼は見てとった様子で、憤然、とでも形容したいほどの勢いで、その机上の本を取り上げ、
「いい小説ですね、これは。」
と言った。
「わるい小説は、すすめないさ。」
その本は、私が、どんなものを読めばいいかという彼の問いに応えて、ぜひそれを読めとすすめた短篇集なのであった。
「まったく偉い作家だ。僕はいままで知らなかった。もっと早くから読んでおればよかった。万世一系とは、こんな作家の事を言うのです。この作家にくらべたら、先生なんかは乞食《こじき》みたいだ。」
その短篇集の著者が、万世一系かどうか、それは彼の言論の自由のしからしむるところであろうから、敢《あ》えて不問に附するとしても、それに較《くら》べ
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング