いやになるね。ひとを殴るなんて、狂人でなくちゃ出来ない事なんじゃないかな。僕はね、軍隊で、あんまり殴られるので、こっちも狂人の真似をしてやれと思って、工夫して、両方の眉《まゆ》を綺麗に剃《そ》り落して上官の前に立ってみた事さえありました。」
「そりゃまた、思い切った事をしたものだ。上官も呆《あき》れたろう。」
「呆れていました。」
「さすがにそれ以後は殴られなくなったろう。」
「いいえ、かえってひどく殴られました。」
小川君の家へ着いた。山を背にして海に臨んだ小綺麗な旅館であった。
小川君の書斎は、裏二階にあった。明窓浄几、筆硯紙墨、皆極精良、とでもいうような感じで、あまりに整頓されすぎていて、かえって小川君がこの部屋では何も勉強していないのではないかと思われたくらいであった。床柱に、写楽の版画が、銀色の額縁に収められて掛けられていた。それはれいの、天狗《てんぐ》のしくじりみたいな、グロテスクな、役者の似顔絵なのである。
「似ているでしょう? 先生にそっくりですよ。きょうは先生が来るというので、特にこれをここに掛けて置いたのです。」
私はあまり、うれしくなかった。
私たちは、机の傍の炉を挟《はさ》んで坐った。彼の机の上には、一冊の書物が、ひらかれたまま置かれていた。たったいままで読んでいたという形のつもりかも知れないが、それもまた、あまりにきちんとひらかれて置かれているので、かえって彼が、その本を一ページも読まなかったのではなかろうかという失礼な疑念がおのずから湧《わ》き上るのを禁じ得なかったくらいであった。
私が机上をちらと見て思わず口をゆがめたのを、素早く彼は見てとった様子で、憤然、とでも形容したいほどの勢いで、その机上の本を取り上げ、
「いい小説ですね、これは。」
と言った。
「わるい小説は、すすめないさ。」
その本は、私が、どんなものを読めばいいかという彼の問いに応えて、ぜひそれを読めとすすめた短篇集なのであった。
「まったく偉い作家だ。僕はいままで知らなかった。もっと早くから読んでおればよかった。万世一系とは、こんな作家の事を言うのです。この作家にくらべたら、先生なんかは乞食《こじき》みたいだ。」
その短篇集の著者が、万世一系かどうか、それは彼の言論の自由のしからしむるところであろうから、敢《あ》えて不問に附するとしても、それに較《くら》べ
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