ですか、まだ、いたみますか。」と、のんきに尋ねる。
「いいえ。」
 私の気のせいか、それは、消え入るほどの力弱い声であった。
「やけどに、とてもよくきく薬を自分は持っているんだけどな。そのリュックサックの中にはいっているんです。塗ってあげましょうか。」
 女は何も答えない。
「電気をつけてもいいですか?」
 男は起き上りかけた様子だ。リュックサックから、そのやけどの薬を取り出そうと思っているらしい。
「いいのよ、寒いわ。眠りましょう。眠らないと、わるいわ。」
「一晩くらい眠らなくても、自分は平気なんです。」
「電気をつけちゃ、いや!」
 するどい語調であった。
 隣室の先生は、ひとりうなずく。電気を、つけてはいけない。聖母を、あかるみに引き出すな!
 男は、また蒲団にもぐり込んだ様子だ。そうして、しばらく、二人は黙っている。
 男は、やがて低く口笛を吹いた。戦争中にはやった少年航空兵の歌曲のようであった。
 女は、ぽつんと言った。
「あしたは、まっすぐに家《うち》へおかえりなさいね。」
「ええ、そのつもりです。」
「寄り道をしちゃだめよ。」
「寄り道しません。」
 私は、うとうとまどろんだ。
 眼がさめた時は、既に午前九時すぎで、隣室の若い客は出発してしまっていた。
 床の中で愚図々々《ぐずぐず》していると、小川君が、コロナを五つ六つ片手に持って私の部屋にやって来た。
「先生、お早う。ゆうべは、よく眠れましたか?」
「うむ。ぐっすり眠った。」
 私は隣室のあの事を告げて小川君を狼狽させる企てを放棄していた。そうして言った。
「日本の宿屋は、いいね。」
「なぜ?」
「うむ。しずかだ。」



底本:「太宰治全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年5月30日第1刷発行
   1998(平成10)年6月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年1月23日公開
2005年11月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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