た。言いかえれば、作家が、このような感想を書きつづることのナンセンスに触れた。「もの思う葦《あし》。」と言い、「碧眼托鉢。」と言うも、これは、遁走《とんそう》の一方便にすぎないのであって、作家たる男が、毎月、毎月、このような断片の言葉を吐き、吐きためているというのは、ほめるべきことでない。
「言い得て、妙である。」
「かれは、勉強している。」
「なるほど、くるしんでいる。」
「狂的なひらめき。」
「切れる。」
「痛いことを言う。」
以上の讃辞は、それぞれそのひとにお返ししたいのである。だいたい身の毛のよだつ言葉である。
私は、生れつき、にぎやかなことを好む男だから、いままで、毎月、毎月、むりをしてまで五六枚ずつ、謂《い》わば感想断片を書き、この雑誌に載せて来た。しかるに、世の中には羞恥心の全く欠けた雨蛙《あまがえる》のような男がたくさんいて、(これは、私にとってあたらしい発見であった。)ちかごろ、「狂的なひらめき。」を見せたる感想断片が、私の身のまわりにも二三ちらばり乱れて咲くようになった。あたかもそれが、すぐれたる作家のひとつの条件ででもあるかのように。
はっきり言えることがらを、どんなにはっきり言っても、言いすぎることはないのであるから、べつに「狂的なひらめき。」を見せて呉れなくても、さしつかえないわけだ。若し、これが、私の「もの思う葦。」の蒔《ま》いた種だとしたなら、私は、にがく笑いながら、これを刈らなければならない。それは、まさしく、よくないことだからである。白い花も、赤い花も、青い花も、いかなる花ひとつ咲かぬ哀しい雑草にちがいないのだ。
私は、誰かと、結託してこの一文を草しているのではない。私はいつでも独《ひと》りでいる。そうして、独りで居るときの私の姿が、いちばん美しいのだと信じている。
「私は、すべて、ものごとを知っています。」と言いたげな、叡智の誇りに満ち満ちた馬面《うまづら》に、私は話しかける。「そうして、君は、何をしたのです。」
作家は小説を書かなければいけない
そのとおりである。そう思ったら、それを実際に行うべきである。聖書を読んだからといって、べつだん、その研究発表をせずともよい。きょうのことは今日、あすのことは明日。そのとおり行うべきである。わかっただけでは、なんにもならない。もうみんなが、わかってしまっているのだ。
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