これが一流の晴着のつもりなのであるが、人は、そんなに注目してはくれない。これを着て出掛けた時には、用談も、あまりうまく行かない。たいてい私は、軽んぜられる。普段着のように見えるのかも知れない。そうして帰途は必ず、何くそ、と反骨をさすり、葛西《かさい》善蔵の事が、どういうわけだか、きっと思い出され、断乎としてこの着物を手放すまいと固執の念を深めるのである。
単衣から袷《あわせ》に移る期間はむずかしい。九月の末から十月のはじめにかけて、十日間ばかり、私は人知れぬ憂愁に閉ざされるのである。私には、袷は、二揃いあるのだ。一つは久留米絣で、もう一つは何だか絹のものである。これは、いずれも以前に母から送ってもらったものなのであるが、この二つだけは柄もこまかく地味なので、私は、かの街の一隅の倉庫にあずけずに保存しているのである。私は絹のものを、ぞろりと着流してフェルト草履《ぞうり》をはき、ステッキを振り廻して歩く事が出来ないたちなので、その絹のものも、いきおい敬遠の形で、この一、二年、友人の見合いに立ち合った時と、甲府の家内の里へ正月に遊びに行った時と、二度しか着ていない。それもまさか、フェルト草履にステッキという姿では無かった。袴《はかま》をはいて、新しい駒下駄《こまげた》をはいていた。私がフェルト草履を、きらうのは、何も自分の蛮風を衒《てら》っているわけではない。フェルト草履は、見た眼にも優雅で、それに劇場や図書館、その他のビルディングにはいる時でも、下駄の時のように下足係の厄介《やっかい》にならずにすむから、私も実は一度はいてみた事があるのであるが、どうも、足の裏が草履の表の茣蓙《ござ》の上で、つるつる滑っていけない。頗《すこぶ》る不安な焦躁感を覚える。下駄よりも五倍も疲れるようである。私は、一度きりで、よしてしまった。またステッキも、あれを振り廻して歩くと何だか一見識があるように見えて、悪くないものであるが、私は人より少し背が高いので、どのステッキも、私には短かすぎる。無理に地面を突いて歩こうとすると、私は腰を少し折曲げなければならぬ。いちいち腰をかがめてステッキをついて歩いていると、私は墓参の老婆のように見えるであろう。五、六年前に、登山用のピッケルの細長いのを見つけて、それをついて街を歩いていたら、やはり友人に悪趣味であると言って怒られ、あわてて中止したが、何も私は趣味でピッケルなどを持ち出したわけではなかったのである。どうも普通のステッキでは、短かすぎて、思い切り突いて歩く事が出来ない。すぐに、いらいらして来るのである。丈夫で、しかも細長いあのピッケルは、私には肉体的に必要であったのである。ステッキは突いて歩くものではない、持って歩くものであるという事も教えられたが、私は荷物を持って歩く事は大きらいである。旅行でも、出来れば手ぶらで汽車に乗れるように、実にさまざまに工夫するのである。旅行に限らず、人生すべて、たくさんの荷物をぶらさげて歩く事は、陰鬱の基のようにも思われる。荷物は、少いほどよい。生れて三十二年、そろそろ重い荷物ばかりを背負されて来ている私は、この上、何を好んで散歩にまで、やっかいな荷物を持ち運ぶ必要があろう。私は、外に出る時には、たいていの持ち物は不恰好でも何でも懐《ふところ》に押し込んでしまう事にしているのであるが、まさかステッキは、懐へぶち込む事は出来ない。肩にかつぐか、片手にぶらさげて持ち運ばなければならぬ。厄介なばかりである。おまけに犬が、それを胡乱《うろん》な武器と感ちがいして、さかんに吠えたてるかも知れぬのだから、一つとして、いいところが無い。どう考えても、絹ものをぞろりと着流し、フェルト草履、ステッキ、おまけに白足袋という、あの恰好は私には出来そうもないのである。貧乏性という奴かも知れない。ついでだから言うが、私は学校をやめてから七、八年間、洋服というものを着た事がない。洋服をきらいなのではなく、いや、きらいどころか、さぞ便利で軽快なものだろうと、いつもあこがれてさえいるのであるが、私には一着も無いから着ないのである。洋服は、故郷の母も送って寄こさない。また私は、五尺六寸五分であるから、出来合いの洋服では、だめなのである。新調するとなると、同時に靴もシャツもその他いろいろの附属品が必要らしいから百円以上は、どうしてもかかるだろうと思われる。私は、衣食住に於いては吝嗇なので、百円以上も投じて洋装を整えるくらいなら、いっそわが身を断崖から怒濤《どとう》めがけて投じたほうが、ましなような気がするのである。いちど、N氏の出版記念会の時、その時には、私には着ている丹前の他には、一枚の着物も無かったので、友人のY君から洋服、シャツ、ネクタイ、靴、靴下など全部を借りて身体に纏《まと》い、卑屈に笑いながら出席したのであるが、この時も、まことに評判が悪く、洋服とは珍らしいが、よくないね、似合わないよ、なんだって又、などと知人ことごとく感心しなかったようである。ついには洋服を貸してくれたY君が、どうも君のおかげで、僕の洋服まで評判が悪くなった、僕も、これから、その洋服を着て歩く気がしなくなった、と会場の隅で小声で私に不平をもらしたのである。たった一度の洋服姿も、このような始末であった。再び洋服を着る日は、いつの事であろうか、いまのところ百円を投じて新調する気もさらに無いし、甚だ遠いことではなかろうかと思っている。私は当分、あり合せの和服を着て歩くより他は無いのであろう。前に言ったように袷は二揃いあるのだが、絹のもののは、あまり好まない。久留米絣のが一揃いあるが、私は、このほうを愛している。私には野暮な、書生流の着物が、何だか気楽である。一生を、書生流に生きたいとも願っている。会などに出る前夜には、私は、この着物を畳んで蒲団の下に敷いて寝るのである。すると入学試験の前夜のような、ときめきを幽かに感ずるのである。この着物は、私にとって、謂わば討入の晴着のようなものである。秋が深くなって、この着物を大威張りで着て歩けるような季節になると、私は、ほっとするのである。つまり、単衣から袷に移る、その過渡期に於いて、私には着て歩く適当な衣服が無いからでもあるのだ。過渡期は、つねに私のような無力者を、まごつかせるものだが、この、夏と秋との過渡期に於て、私の困惑は深刻である。袷には、まだ早い。あの久留米絣のお気に入りらしい袷を、早く着たいのだが、それでは日中暑くてたまらぬ。単衣を固執していると、いかにも貧寒の感じがする。どうせ貧寒なのだから、木枯しの中を猫背になってわななきつつ歩いているのも似つかわしいのであろうが、そうするとまた、人は私を、貧乏看板とか、乞食《こじき》の威嚇《いかく》、ふてくされ等と言って非難するであろうし、また、寒山拾得の如く、あまり非凡な恰好をして人の神経を混乱させ圧倒するのも悪い事であるから、私は、なるべくならば普通の服装をしていたいのである。簡単に言ってしまうと、私には、セルがないのである。いいセルが、どうしても一枚ほしいのである。実は一枚、あることはあるのだが、これは私が高等学校の、おしゃれな時代に、こっそり買い入れたもので薄赤い縞《しま》が縦横に交錯されていて、おしゃれの迷いの夢から醒めてみると、これは、どうしたって、男子の着るものではなかった。あきらかに婦人のものである。あの一時期は、たしかに、私は、のぼせていたのにちがいない。何の意味も無く、こんな派手ともなんとも形容の出来ない着物を着て、からだを、くにゃくにゃさせて歩いていたのかと思えば、私は顔を覆って呻吟《しんぎん》するばかりである。とても着られるものでない。見るのさえ、いやである。私は、これを、あの倉庫に永いこと預け放しにして置いたのである。ところが昨年の秋、私は、その倉庫の中の衣服やら毛布やら書籍やらを少し整理して、不要のものは売り払い、入用と思われるものだけを持ち帰った。家へ持ち帰って、その大風呂敷包を家内の前で、ほどく時には、私も流石《さすが》に平静でなかった。いくらか赤面していたのである。結婚以前の私のだらし無さが、いま眼前に、如実に展開せられるわけだ。汚れた浴衣は、汚れたままで倉庫にぶち込んでいたのだし、尻の破れた丹前も、そのまま丸めて倉庫に持参していたのだし、満足な品物は一つとして無いのだ。よごれて、かび臭く、それに奇態に派手な模様のものばかりで、とても、まともな人間の遺品とは思われないしろものばかりである。私は風呂敷包を、ほどきながら、さかんに自嘲した。
「デカダンだよ。屑屋《くずや》に売ってしまっても、いいんだけどもね。」
「もったいない。」家内は一枚一枚きたながらずに調べて、「これなどは、純毛ですよ。仕立直しましょう。」
見ると、それは、あのセルである。私は戸外に飛び出したい程に狼狽した。たしかに倉庫に置いて来た筈なのに、どうして、そのセルが風呂敷包の中にはいっていたのか、私にはいまもって判らない。どこかに手違いがあったのだ。失敗である。
「それは、うんと若い時に着たのだよ。派手なようだね。」私は内心の狼狽をかくして、何気なさそうな口調で言った。
「着られますよ。セルが一枚も無いのですもの。ちょうどよかったわ。」
とても着られるものではない。十年間、倉庫に寝かせたままで置いているうちに、布地が奇怪に変色している。謂わば、羊羹色《ようかんいろ》である。薄赤い縦横の縞は、不潔な渋柿色を呈して老婆の着物のようである。私は今更ながら、その着物の奇怪さに呆《あき》れて顔をそむけた。
ことしの秋、私は必ずその日のうちに書き結ばなければならぬ仕事があって、朝早く飛び起き、見ると枕元に、見馴れぬ着物が、きちんと畳まれて置かれてある。れいのセルである。そろそろ秋冷の季節である。洗って縫い直したものらしく、いくぶん小綺麗にはなっていたが、その布地の羊羹色と、縞の渋柿色とは、やはりまぎれもない。けれどもその朝は、仕事が気になって、衣服の事などめんどうくさく、何も言わずにさっさと着て朝ごはんも食べずに仕事をはじめた。昼すこし過ぎにやっと書き終えて、ほっとしていたところへ、実に久しぶりの友人が、ひょっこり訪ねて来た。ちょうどいいところであった。私は、その友人と一緒に、ごはんを食べ、よもやまの話をして、それから散歩に出たのである。家の近くの、井《い》の頭《かしら》公園の森にはいった時、私は、やっと自分の大変な姿に気が附いた。
「ああ、いけない。」と思わず呻《うめ》いた。「こりゃ、いけない。」立ちどまってしまった。
「どうしたのです。お腹《なか》でも――、」友人は心配そうに眉をひそめて、私の顔を見詰めた。
「いや、そうじゃないんだ。」私は苦笑して、「この着物は、へんじゃないかね。」
「そうですね。」友人は真面目に、「すこし派手なようですね。」
「十年前に買ったものなんだ。」また歩き出して、「女ものらしいんだ。それに、色が変っちゃったものだから、なおさら、――」歩く元気も無くなった。
「大丈夫ですよ。そんなに目立ちません。」
「そうかね。」やや元気が出て来て、森を通り抜け、石段を降り、池のほとりを歩いた。
どうにも気になる。私も今は三十二歳で、こんなに鬚《ひげ》もじゃの大男になって、多少は苦労して来たような気もしているのであるが、やはり、こんな悪洒落みたいな、ふざけた着物を着て、ちびた下駄をはき、用も無いのに公園をのそのそ歩き廻っている。知らない人は、私をその辺の不潔な与太者と見るだろう。また私を知っている人でも、あいつ相変らずでいやがる、よせばいいのに、といよいよ軽蔑するだろう。私はこれまで永い間、変人の誤解を受けて来たのだ。
「どうです。新宿の辺まで出てみませんか。」友人は誘った。
「冗談じゃない。」私は首を横に振った。「こんな恰好で新宿を歩いて、誰かに見られたら、いよいよ評判が悪くなるばかりだ。」
「そんな事もないでしょう。」
「いや、ごめんだ。」私は頑として応じなかった。「その辺の茶店で休もうじゃないか。」
「僕は、お酒を飲ん
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