たちの手中に在ると大声で煽動《せんどう》せられても、私は苦しく顔をゆがめて笑っただけでした、という事だけを申し上げて、その余の愚痴めいた事は、言わない事にいたしましょう。私もどうやら、あなたと同様に、十九世紀の作家のようであります。
 いろいろ失礼な事ばかり申し上げましたが、本当に、私はあなたのお手紙のお言葉の内容に於いては、何一つ啓発せられるところが無かった、けれども、私は、うろたえたのです。お手紙を持って、うろうろしました。のがれて都を出たのです。こいつあいかんという気持で鞄にペン、インク、原稿用紙をつめ込んだのです。なぜでしょう。私は、あなたの手紙の長さに負けたのです。私ごときに、こんなに長いむだな手紙を下さる、あなたのばかな情熱に狼狽《ろうばい》してしまったのです。これだけ長い文章を、もし原稿用紙に書いたら、あなたはたいへんな原稿料を受け取る事が出来るのにと卑《いや》しい讃嘆の思いをさえ抱きました。あなたは、いま、ひどく退屈して居られるのではなかろうかとも思いました。私だけでなく、他の誰かれにも、こんな長い手紙を、むきになって書いて居られるのではないだろうかと思えば、いよいよ狼狽するばかりでありました。私は、あなたを、ずいぶん深く愛しているようです。日常の手紙などで、あなたのもったいない情熱をこんなに濫費《らんぴ》されて、たまるものかという気がしました。私は、自分を愛するよりも、あなたを愛しています。私は苦しくなりました。そうして、つくづく、あなたを駄目な、いいひとだと思いました。大痴という言葉がありますが、あなたは、それです。底抜けのところがあります。やはりあなたは有数の人物だと思いました。こんどは、もういいから、私にも誰にも、あんな長い手紙は書かないで下さい。閉口です。もう、わかりました。私は作品を書きます。書きます。こいつは、かなわんという気持で私は鞄にペン、インク、原稿用紙、聖書などを詰め込んだのです。
 思えば、ばからしい旅でした。何一ついい事がありません。もう今夜で、三泊する事になるのですが、仕事は一枚も出来ません。最初の夜から大失敗でした。それをお知らせ致しましょう。私には仕事の腹案が一つも無かったのです。出来れば一つラヴ・ロマンス(お笑いになりましたね。)そいつを書いてみたいという思いが心のどこかの隅に、幽《かす》かに疼《うず》いていたようです。文学とは、恋愛を書く事ではないのかしらと、このとしになって、ちょっと思い当った事もありましたので、私の最近の行きづまりを女性を愛する事に依って打開したい等、がらにもない願望をちらと抱いた夜もあって、こんどの旅行で何かヒントでも得たら、しめたものだと陳腐《ちんぷ》な中学生式の空想もあったのでした。私には旅行がめずらしかったものですから、それで少し浮き浮きしていたというところもあったのでしょう。あわれな話ですね。若い花やかなインスピレエションが欲しさに、私は大しくじりを致しました。最初の晩、ごはんのお給仕に出た女中は二十七八歳の、足を外八文字にひらいて歩く、横に広いからだのひとでした。眼が細く小さく、両頬は真赤でおかめの面《めん》のようでありました。何を考えているのか、どういう性格なのか、よくわからないような人でありました。私は、宿の客が多いか、何月ごろが一ばんいそがしいか、そうか、ねえさんは此の土地の人か、そうか、などと少しも知りたくない事ばかりを無理してお義理に質問しては、女中が答えないさきから首肯《うなず》いたりしていました。女中は聞かれた事だけを、はっきり一言で答えて、他には何も言いません。ぶあいそな女中でした。私は退屈しました。ちっとも話題が無くなりました。私は重くるしくなりました。二本目のお銚子《ちょうし》にとりかかった時、どういう風の吹き廻しか、ふいと坂田藤十郎の事が思い浮んだのです。芸に行きづまり一夜いつわりの恋をしかけて、やっとインスピレエションを得た。わるい事だが、芸のためには、やむを得まい。私も実行しよう。すぐに屹《き》っと眉《まゆ》を挙げて、女中さん、と声の調子を変えて呼びかけました。君を好きなんだ、とか何とか自分でも呆れるくらい下手な事を言って、そっと女中の手を握ろうとしたら、ひどい事になりました。女中は、「何しるでえ!」と大声で叫んで立ち上り、けもののような醜いまずい表情をして私を睨《にら》み、「あてにならねえ。非常時だに。」と言いましたB私は肝《きも》のつぶれるほどに驚倒し、それから、不愉快になりました。「自惚《うぬぼ》れちゃいけない。誰が君なんかに本気で恋をするものか。」と私も、がらりと態度を改めて言ってやりました。「ためしてみたのだ。むかし坂田藤十郎という偉い役者がいてね、」と説明しかけたら、また大きな声で、「いい加減言うじゃあ。寄るな! 寄るな!」とわめいて両手を胸に当て、ひとりで身悶えするのですが、なんとも、まずい形でした。私は酔いも醒《さ》め、すっかりまじめな気持になってしまって、「誰も君に寄りやしないじゃないか。坐り給え。僕が悪かったよ。銃後の女性は皆、君のようにしっかりしていなければいけないね。」などと言ってほめてやりましたが、女中は、いかにも私を軽蔑し果てたというように、フンと言って、襟《えり》を掻き合せ、澄まして部屋から出て行きました。私は残ったお酒をぐいぐい呑み、ひとりでごはんをよそって食べましたが、実にばからしい気持でした。藤十郎が、こんなひどい目に遇うとは、思いも設けなかった事でした。とかく、むかしの伝説どおりには行かないものです。「何しるでえ!」には、おどろきました。インスピレエションも何もあったものではありません。これでは藤十郎のほうで、くやしく恥ずかしくて形がつかず、首をくくらなければなりません。その夜、お膳《ぜん》を下げに来たのも、蒲団《ふとん》を伸べに来たのも、あの外八文字ではありませんでした。痩せて皮膚のきたない、狐《きつね》のような顔をした四十くらいの女中でした。この女中までが私を変に警戒しているようなふうなので、私は、うんざりしました。あの外八文字が、みんなに吹聴《ふいちょう》したのに違いありません。その夜は私も痛憤して、なかなか眠られぬくらいでしたが、でも、翌《あく》る朝になったら恥ずかしさも薄らいで、部屋を掃除しに来た外八文字に、ゆうべは失敬、と笑いながら軽く言う事が出来ました。やっぱり男は四十ちかくになると、羞恥心が多少|麻痺《まひ》して図々しくなっているものですね。十年前だったら、私はゆうべもう半狂乱で脱走してしまっていたでしょう。自殺したかも知れません。外八文字は、私がお詫びを言ったら、不機嫌そうに眉をひそめてちょっと首肯きました。たいへん、もったいぶっています。私は、もう此の女とは一言も口をきくまいと思いました。実に、くだらない。きのうは一日一ぱい、寝ころんで聖書を読んでいました。夜も、お酒は呑みませんでした。ひとりで渓流の傍の岩風呂にからだを沈めて、心まずしきものは幸いなるかな、心まずしきものは幸いなるかな、となんども呟《つぶや》いてみましたが、そのうちに大きい声で、いい仕事をしろ、馬鹿野郎、いい仕事をしろ、馬鹿野郎と言うようになりました。それから、小さい声で、いい仕事の出来るように、いい仕事の出来るように、と呟いて、ひどく悲しくなって真暗い空を仰いで、もっとうんと小さい声で、いい仕事をさせて下さい、と囁《ささや》くように言いました。渓流の音だけが物凄《ものすご》くて、――渓流の音と言えば、すぐにきょうのお昼の失敗を思い出し、首筋をちぢめます。実は、きょうのお昼に、また一つ失敗をしたのです。けさ私は、岩風呂でないほうの、洋式のモダン風呂のほうへ顔を洗いに行って、脱衣場の窓からひょいと、外を見るとすぐ鼻の先に宿屋の大きい土蔵があってその戸口が開け放されているので薄暗い土蔵の奥まで見えるのですが、土蔵の窓から桐《きり》の葉の青い影がはいっていて涼しそうでした。女が坐っているのです。奥に畳が二枚敷かれていて、簡単服を着た娘さんが、その上にちゃんと行儀よく坐って縫いものをしているのでした。悪くないな、と思いました。丸顔で、そんなに美人でもないようですが、でも、みどりの葉影を背中に受けてせっせと針仕事をしている孤独の姿には、処女の気品がありました。へんに気になって、朝ごはんの時、給仕に出て来た狐の女中に、あの娘さんは何ですか、とたずねてみました。狐の女中は、にこりともせず、あれは近所のお百姓の娘さんで毎日あそこで宿の浴衣《ゆかた》や蒲団を繕《つくろ》っているのです、いいひとが出征したので此頃さびしそうですね、と感動の無い口調で言って、私の顔をまっすぐに見つめて、こんどは、あの人に眼をつけたのですか、と失敬な事まで口走るので、私も、むっとしました。すくなくとも君たちよりは上等だね、と言ってやろうかと思いましたが、怺《こら》えて、ただ苦笑して見せました。お昼頃、廊下の籐椅子に腰かけて谷底の渓流を見おろしていたら、釜《かま》が淵《ふち》という、一丈くらいの小さい滝の落ちているあたりに女の人が、しゃがんでいるのにふと気が附いて、よくよく見ると、どうもあの土蔵のひとのようなので、私は、いたたまらなくなりました。淋しそうな人の姿を見ると、私は、自分に何も出来ないのがわかっていながら、何かしてやりたくて、てんてこ舞いしてオまうのです。とても、じっとして居られなくなります。私は立ち上り、浴衣をちゃんと着直して、ハンケチで顔の油を拭い、そうして鞄の中から財布を取り出して懐に入れました。私は旅馴れていないせいか、財布が気になってなりません。部屋を出る時は、トイレットへ行く時でも、お風呂へ行く時でも、散歩に出る時でも、かならず懐へ入れて出ます。お金が惜しいというわけではなく、無くなった時、いろいろ騒ぎになる、その騒ぎがいやなのです。私は岩風呂へ降りて行って、そこからスリッパのままで釜が淵のほうへぶらぶら何気なさそうに歩いて行きました。女の尻を追い廻す、という最下等のいやな言葉が思い浮びましたが、私の場合は、それとちがうのだというような気もして、そんなに天の呵責《かしゃく》も感じませんでした。なんとかして一言、なぐさめてやりたかったのです。女の人は、私のほうをちらと見て、立ち上りました。私はここぞと微笑して、「毎日たいへんですね。」と言ってやりました。女は、え? と聞き直すように小頸《こくび》をかしげて私のほうを見て、当惑そうに幽かに笑いました。聞えないのです。急湍《きゅうたん》は叫喚し怒号し、白く沸々と煮えたぎって跳奔している始末なので、よほどの大声でなければ、何を言っても聞えないのです。私は、よほどの大声で、「毎日たいへんですね!」と絶叫しました。けれども、やっぱり奔湍の叫喚にもみくちゃにされて聞えないのです。女は、いよいよ当惑そうに眼をぱちぱちさせて、笑っています。私は、やけくそになって吠えるようにもういちど、「毎日たいへんですね!」と叫びましたが、女は、やはり、え? と聞き直すように、私の顔を見つめます。私は、しょげてしまいました。毎日たいへんですねという言葉そのものが、いったい何の事やら、わけがわからない、ばからしいもののような気がして来て、不機嫌にさえなりました。私はあきらめて岩にくだけて躍る水沫をしばらく眺め、それから帰りました。部屋へ帰ってから財布が懐に無い事に気が附きうろたえました。きっと釜が淵のあたりに落したのだ。そうして、あの女に拾われてしまったのだと、なぜだか電光の如くきらりと思い込んでしまいました。きっとあの人には盗癖があって、拾っても知らぬ振りをしているのだ。あんな淋しそうな女には、意外にも盗癖があるものだ。けれども私は、ゆるしてやろう。などと少しロマンチックな興奮を取り戻して、部屋を出てまた岩風呂のほうへ降りて行く途中で、その財布が私の浴衣の背中のほうに廻っているのを発見して、しんから苦笑しました。私は、ラヴ・ロマンスをあきらめます。「五十円」という題の貧乏小説を書こう
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