ような、全く滑稽《こっけい》な幼い遊戯であります。一つとして見るべきものがありません。雰囲気の醸成を企図する事は、やはり自涜《じとく》であります。「チエホフ的に」などと少しでも意識したならば、かならず無慙《むざん》に失敗します。言わでもの事であったかも知れません。君も既に一個の創作家であり、すべてを心得て居られる事とvいますが、君の作品の底に少し心配なところがあるので、遠慮をせずに申し上げました。無闇《むやみ》に字面《じづら》を飾り、ことさらに漢字を避けたり、不要の風景の描写をしたり、みだりに花の名を記したりする事は厳に慎しみ、ただ実直に、印象の正確を期する事一つに努力してみて下さい。君には未だ、君自身の印象というものが無いようにさえ見える。それでは、いつまで経っても何一つ正確に描写する事が出来ない筈です。主観的たれ! 強い一つの主観を持ってすすめ。単純な眼を持て。複雑という事は、かえって無思想の人の表情なのです。それこそ、本当の無学です。君は無学ではありません。君の作品に於いても、根強い一つの思想があるのに、君は、それを未だに自覚していないのです。次の箴言《しんげん》を知っていますか。
「エホバを畏《おそ》るるは知識の本《もと》なり。」
 多少、興奮して、失敬な事を書いたようです。けれども、若いすぐれた資質に接した時には、若い情熱でもって返報するのが作家の礼儀とも思われます。自分は、ハンデキャップを認めません。体当りで来た時には、体当りで返事をします。
 今日は、君の作品に就《つ》いてだけ申し上げました。君のお手紙の言葉に対しては、次の機会にゆっくりお答えしたいと考えています。君の二通の手紙は、君の作品に較べて、ひどく劣っています。自分がもし君のあの手紙だけを読んで君の作品に接していなかったら、自分は君に返事を書かなかったろうと思います。君は、嘘ばかり書いていました。次の機会に、もっとくわしく申し上げます。長くなりますので、今日の手紙は、これだけで打ち切ります。
 よい友人が得られそうなので、自分も久し振りに張り合いを感じています。やり切れなくなったら、旅行でもしてみたら、どうですか。不一。
    二十五日[#地から3字上げ]井原退蔵
  木戸一郎様


 謹啓。
 御手紙を、繰り返し拝読いたしました。すぐにはお礼状も書けず、この三日間、溜息《ためいき》ばかりついていました。私はあなたのお手紙を、かならずしも聖書の如く一字一句、信仰して読んだわけではありません。ところどころに、やっぱり不満もありました。小説の妙訣《みょうけつ》は、印象の正確を期するところにあるというお言葉は、間髪をいれず、立派でございましたが、私の再度の訴えもそこから出発していた筈であります。「たしかな事」だけを書きたかったと私は申し上げた筈でした。自分の掌で、明確に知覚したものだけを書いて、置きたかった、と言いました。けれども、このごろ私には、それが出来なくなりました。理由は、あります。けれども具体的には申し上げません。私は、それをあなたに訴えた筈です。けれどもあなたは、私の手紙を全然黙殺してしまいました。そうして、あなたご自身のお得意のテエマだけを一つ勝手に択《えら》んで、立派な感想を述べました。けれども、私はそのテエマに就いての講義は、ちっとも聞きたくなかったのです。古いなあ、とさえ思いました。私の聞きたい事は、そんな、上品な方法論ではなかったのです。もっと火急の問題であります。この次の御手紙では、かならず、その問題に触れてお答え下さい。きっと、お願い致します。
 おゆるし下さい。御好意に狎《な》れて、言いたい放題の事を言いました。きっと、あなたは烈火のようにお怒りでしょう。けれども私は、平気です。
「エホバを畏るるは知識の本なり。」いい言葉をいただきました。私は、これから、あなたに対して、うんと自由に振舞います。美しい、唯一の先輩を得て、私の背丈《せたけ》も伸びました。
 さて、それでは冒頭の言葉にかえりますが、私が、この三日間、すぐにはお礼も書けず、ただ溜息ばかりついていたというわけは、お手紙の底の、あなたの意外の優しさが、たまらなかったからであります。失礼ながら、あなたは無垢《むく》です。苦笑なさるかも知れませんが、あなたの住んでいらっしゃる世界には、光が充満しています。それこそ朝夕、芸術的です。あなたが、作品の「芸術的な雰囲気」を極度に排撃なさるのも、あなたの日常生活に於いてそれに食傷して居られるからでもないか知らとさえ私には思われました。私は極端に糠味噌《ぬかみそ》くさい生活をしているので、ことさらにそう思われるのかも知れませんが、五十歳を過ぎた大作家が、おくめんも無く、こんな優しいお手紙をよくも書けたものだと、呆然《ぼうぜん》としました。
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