ネければなるまい、けれども一体、どこから手をつけて行けばいいのか、途方に暮れて、愚妻の皺《しわ》の殖えたソバカスだらけの顔を横目で見て、すさまじい気が致しました。私は、自分に呆《あき》れました。そうして、けさは又、あなたから、たいへん短いお言葉をいただき、いよいよ自分に呆れました。先日の私の、あんな、ふざけた手紙には、これくらいの簡単な御返事で適当なのだろうと思い知りました。決して、お怨みしているのではございません。とんでも無いことであります。その点は、なにとぞ御放念下さい。私は、けさの簡単なお葉書のお言葉に依《よ》って、私の身の程を、はっきり知らされたのです。かえって有難く思って居ります。こうして書いているうちにも、だんだんはっきり判って来ます。つまり、けさ私がお葉書をいただいて、その葉書の処置に窮して、うろうろしたのは、自分の身の程を知らされて狼狽《ろうばい》していただけの事でありました。少しは私にも、作家としての誇りもあったのでしょう、その誇りのやり場に窮して、うろうろあのお葉書を持ち廻っていたのに違いありません。私は、はじめから、やり直します。さらに素直に、心掛けます。
「華厳」を、あれから、もう一度、ゆっくり読みかえしてみました。最初、お照が髪を梳《す》いて抜毛を丸めて、無雑作に庭に投げ捨て、立ち上るところがありますけれど、あの一行半ばかりの描写で、お照さんの肉体も宿命も、自然に首肯出来ますので、思わず私は微笑《ほほえ》みました。庭の苔《こけ》の描写は、余計のように思われましたけれど、なお、もう一度、読みかえしてみるつもりであります。雨後の華厳の滝のところは、ただもう、にこにこしてしまいました。滝のしぶきが、冷く痛く頬に感ぜられました。お照も細く見えた、という結末の一句の若さに驚きました。女体が、すっと飛ぶようにあざやかに見えました。作者の愛情と祈念が、やはり読者を救っています。
 私は貧乏なので、なんの空想も浮ばず、十年一日の如く、月末のやりくり、庭にトマトの苗を植えた事など、ながながと小説に書いて、ちかごろは、それもすっかり、いやになって、なんとかしなければならぬと、ただやきもきして新聞ばかり読んでいます。脚気《かっけ》のほうも、最近は、しびれるような事も無く、具合がいいので、五、六日前から少しずつ、酒の稽古をはじめて居ります。酒を飲むと、少し空想も豊富になって、うれしいのです。酒がこんなに有難いものだとは思わなかった。酒は不潔な堕落のような気がして、このとしになるまで盃をふくんだ事がなかったのですが、国内に酒が少し不足になりかけた頃に、あわてて酒の稽古をするとは、実に、おどろくべき遅刻者であります。私は、いつでも遅刻ばっかりしていました。いっそトラックを一周おくれて、先頭になりましょうか。ひとつ御指導を得て、恋愛の稽古もはじめたい。歴史を勉強しましょうか。哲学とやらは如何。語学は。
 告白すると、私は、ショパンの憂鬱な蒼白《あおじろ》い顔に芸術の正体を感じていました。もっと、やけくそな言葉で言うと、「あこがれて」いました。お笑いになりますか。海浜の宿の籐椅子《とういす》に、疲れ果てた細長いからだを埋めて、まつげの長い大きい眼を、まぶしそうに細めて海を見ている。蓬髪《ほうはつ》は海の風になぶられ、品《ひん》のよい広い額に乱れかかる。右頬を軽く支えている五本の指は鶺鴒《せきれい》の尾のように細長くて鋭い。そのひとの背後には、明石《あかし》を着た中年の女性が、ひっそり立っている。呆れましたか。どうも私の空想は月並みで自分ながら閉口ですが、けれども私は本気で書いてみたのです。近代の芸術家は、誰しも一度は、そんな姿と大同小異の影像を、こっそりあこがれた事がある。実に滑稽です。大工のせがれがショパンにあこがれ、だんだん横に太るばかりで、脚気を病み、顔は蟹《かに》の甲羅《こうら》の如く真四角、髪の毛は、海の風に靡《なび》かすどころか、頭のてっぺんが禿《は》げて来ました。そうして一合の晩酌で大きい顔を、でらでら油光りさせて、老妻にいやらしくかまっています。少年の頃、夢に見ていた作家とは、まさか、こんなものではありませんでした。本当に、「こんな筈ではなかった」という笑い話。けれども現在の此の私は、作家以外のものでは無い。先生、と呼ばれる事さえあるのです。ショパンを見捨て、山上憶良に転向しましょうか。「貧窮問答」だったら、いまの私の日常にも、かなりぴったり致します。こんなのを民族的自覚というのでしょうか。
 書いているうちに、何もかも、みんな、くだらなくなりました。これで失礼いたします。けさは朝から不愉快でした。少し落ち附いて考えてみたくなりました。なんだか、みんな不安になりました。けれどもお気になさらぬよう。失礼いたしました。

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