な理由は、申し上げません。私は、あなたの「華厳」を読み、その興奮から、二十年間の抑制を破り、思い切って手紙を書いたと前に申し上げましたが、実は、その興奮の他に、私の此の行きづまりをも訴えたかったからでありました。二十年間、私の歩んで来た文学の道に、このように大きな疑問が生じたのは、はじめての事であります。ぎりぎりに困惑したら、一言だけ、あなたのお指図をいただきたいと、二十年間、私は、ひそかに、頼みにして生きて来ました。少しでも、いじらしいとお思いになったら、御返事を下さい。二十年間を、決して押売《おしう》りするわけではございませんが、もういまは、私の永い抑制を破り、思い切って訴える時のようであります。どうか、失礼の段は、おゆるし下さい。
 私の最近の短篇小説集、「へちまの花」を一部、お送り申しました。お読み捨て下さい。
 ここは武蔵野のはずれ、深夜の松籟《しょうらい》は、浪《なみ》の響きに似ています。此の、ひきむしられるような凄《さび》しさの在る限り、文学も不滅と思われますが、それも私の老書生らしい感傷で、お笑い草かも知れませぬ。先生(と意外にも書いてしまいましたから、大切にして、消さずに、そのまま残して置きます。)御自愛を祈ります。敬具。
    六月十日[#地から3字上げ]木戸一郎
  井原退蔵様


 拝復。
 先日は、短篇集とお手紙を戴きました。御礼おくれて申しわけありませんでした。短篇集は、いずれゆっくり拝読させて戴くつもりです。まずは、御礼まで。草々。
    十八日[#地から3字上げ]井原退蔵
  木戸一郎様


 一枚の葉書《はがき》の始末に窮して、机の上に置きそれに向ってきちんと正坐してみても落ち附かず、その葉書を持って立ち上り、部屋の中をうろうろ歩き廻ってみても、いよいよ途方に暮れるばかりで、いっそ何気なさそうな顔をして部屋の隅《すみ》の状差《じょうさ》しに、その持てあました葉書を押し込んで、フンといった気持で畳の上にごろりと寝ころんでもみましたが、一向に形が附かず、また起き上ってその葉書を状差しから引き抜き、短かすぎる文面を小声で読んで、淋しく、とうとう二つに折って、懐《ふところ》深くねじ込み、どうやら少し落ち附いた気持になって、机に向い、またもやあなたにこんな失礼な手紙を書きしたためて居ります。
 先日は、実に、だらしない手紙を差し上げ、まこ
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