もやめて居ります。温泉は、脚気の者にあまりよくないようです。早くよくなって、また二、三合の酒を飲めるようになりたいと思います。お酒を飲まないと、夜、寝てから淋しくてたまりません。地の底から遠く幽かに、けれどもたしかに誰かの切実の泣き声が聞えて来て、おそろしいのです。
 そのほか私の日常生活に於いて変った事は、何もございません。すべてが、もとのままであります。心は、いつも動いているのですけれど。
 あなたのところへ、こんな長い手紙を差し上げるのも、これが最後かと思われます。あなたに対する一すじの尊敬の心は絶えず持ちつづけているつもりでありますが、あなたを愛し、或いは、あなたに甘える事が出来なくなりました。なぜだか出来なくなりました。私は、あなたの路とはっきり違う路を歩きはじめているようです。あなたは、美しい作家です。水蓮《すいれん》のように美しい。私はその美しさを一生涯わすれる事が無いでしょう。けれども私は、その水蓮の咲いている池から、少しずつ離れて行きます。私は、面《おもて》を伏せて歩いているけもののようです。私には美学が無いのです。生活の感傷だけです。私は、これから、いよいよ野暮な作品ばかり書いて行くような気がします。なんだか、深く絶望したものがあります。
 あなたからいただいたお手紙は、生涯大事に、離さずに、しまって置きます。
 たくさん、おゆるし下さい。再拝。
    八月十六日[#地から3字上げ]木戸一郎
  井原退蔵様


 拝復。
 何が何やら、わからぬ手紙をもらいました。二十円は、たしかに受け取りました。自分だって、君にお金を差し上げるなど失礼な事を考えていたのではない。返して頂くつもりでありました。それに、自分は、お金があり余って処置に窮するほどの金満家でもありませんから、返してもらって助かりました。君たちは本当にせぬかも知れぬが、自分の家では、昔からの借銭が残って月末のやりくりは大変であります。どっちの方が貧乏人なのか、わかったものでない。君は、二言目には、貧乏、貧乏といって、悲壮がっているようだが、エゴの自己防衛でなかったら幸いだ。人に不義理はしていねえ、という事が唯一の誇りだとか言っているが、無理なつき合いはしたくねえ、というケチな言葉も、その裏にはありはしないか。自分は、貧乏人根性は、いやだ。いじいじして、人の顔色ばっかり覗《のぞ》いている。
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