。私にとっては、はじめての「私小説」で無い小説ですが、けれども、やっぱり他人の事は書けません。自分の周囲の事を書いているのです。いままでの小説の形式に行きづまって、うんざりして、やっとこんな冒険の新形式を試みる事になったのですが、どうやら、きょうで物語の三分の二まで漕《こ》ぎつけて調子も出て来たようですから、少し、ほっとしているのです。ちらと青空も見えて来ました。ぎりぎりに行きづまって、くるしまなければ、いつまで経っても青空を見る事が出来ないのだ、いまは、かえって、きのう迄の行きづまりに感謝だ、などと甘い感慨にふけっている形なのです。私は無学で、本当に何一つ知らないのですが、でも、聖書だけは、新聞配達をしている頃から、くるしい時には開いて読んで居りました。一時、わすれていたのですが、こんど、あなたから、「エホバを畏《おそ》るるは知識の本なり。」という箴言《しんげん》を教えていただいて愕然《がくぜん》としたのでした。ずいぶん久しい間、聖書をわすれていたような気がして、たいへんうろたえて、旅行中も、ただ聖書ばかりを読んでいました。自分の醜態を意識してつらい時には、聖書の他には、どんな書物も読めなくなりますね。そうして聖書の小さい活字の一つ一つだけが、それこそ宝石のようにきらきら光って来るから不思議です。あの温泉宿で、ただ、うろうろして一枚の作品も書けず、ひどく無駄をしたような気持でしたが、でも、いまになって考えると聖書を毎日読んだという事だけでも、たいへん貴重な旅行であったのかも知れません。聖書を思い出させて下さったのも、また、私に旅行をすすめて下さったのも、すべてあなたであります。やはり私は、あなたに苦しさを訴えてよかったのかも知れません。私は、あなたに救われたのです。いよいよ私は、あなたに甘える事が出来ません。真の尊敬というものは、お互いの近親感を消滅させて、遠い距離を置いて淋《さび》しく眺め合う事なのでしょうか。私は今は、生れてはじめて孤独です。
「出エジプト記」を読むと、モーゼの努力の程が思いやられて、胸が一ぱいになります。神聖な民族でありながらもその誇りを忘れて、エジプトの都会の奴隷の境涯に甘んじ貧民窟で喧噪《けんそう》と怠惰の日々を送っている百万の同胞に、エジプト脱出の大事業を、「口重く舌重き」ひどい訥弁《とつべん》で懸命に説いて廻ってかえって皆に迷惑がられ
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