この手紙には、御返事は要《い》りません。お大事に。
六月二十日[#地から3字上げ]木戸一郎
井原退蔵様
前略。
返事は要らぬそうだが御返事をいたします。
君の赤はだかの神経に接して、二三日、自分に(君にではない)不潔を感じて厭《いや》な気がしていたという事も申して置きます。自分は、君の名を前から知っていました。作品を読んだ事は無かったが、詩人の加納君が、或る会合の席上でかなりの情熱を以《もっ》て君の作品をほめて、自分にも一読をすすめた事がありました。自分も、そんなら一度読んでみようと思いながら、今日までその機会が無く、そのままになっていました。先日、君の短篇集とお手紙をもらって、お礼のおくれたのは自分の気不精からでもありましたが、自分は誰かれの差別なくお礼やら返事やらを書いているわけにも行きません。恩を着せるようにとられても厭ですが、自分は君の短篇集をちょっと覗《のぞ》いてみて、安心していいものがあるように思われましたから、気も軽くなって不取敢《とりあえず》お礼を差し上げたのです。お礼の言葉が短かすぎて君はたいへん不満のようですが、お礼には、誠実な「ありがとう」の一言で充分だと思う。他に、どんな言葉が要るのですか。あの時には、自分は未だ君の作品を、ほとんど読んでいなかったのです。
けれどもいまは、ちがいます。自分は君の短篇集を、はじめから終りまで全部読みました。かなりの資質を持った作家だと思いました。いつか詩人の加納が、君の作品をほめていたが、その時の加納の言葉がいま自分にも、いちいち首肯出来ました。
「光陰」のタッチの軽快、「瘤《こぶ》」のペエソス、「百日紅《さるすべり》」に於ける強烈な自己凝視など、外国十九世紀の一流品にも比肩《ひけん》出来る逸品と信じます。お手紙に依《よ》れば、君は無学で、そうして大変つまらない作家だそうですが、そんな、見え透いた虚飾の言は、やめていただく。君が無学で、下手な作家なら、井原は学者で、上手な作家という事になるようですが、そんな、人を無意味に困惑させるような言葉は、聞きたくないのです。もし君が、これから自分と交際をはじめるつもりであったなら、まず、そんな不要の言いわけは一言もせぬ事にして、それからにして欲しい。そうで無ければ、自分は交際を願うわけに行かない。「私は無学で、下手な作家」だと言われると、言われた
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