とも思わぬ。キザな言い方であるが、花ひらく時節が来なければ、それは、はっきり解明できないもののようにも思われる。
 ことしの正月、十日頃、寒い風の吹いていた日に、
「きょうだけは、家にいて下さらない?」
 と家の者が私に言った。
「なぜだ。」
「お米の配給があるかも知れませんから。」
「僕が取りに行くのか?」
「いいえ。」
 家の者が二、三日前から風邪《かぜ》をひいて、ひどいせきをしているのを、私は知っていた。その半病人に、配給のお米を背負わせるのは、むごいとも思ったが、しかし、私自身であの配給の列の中にはいるのも、頗《すこぶ》るたいぎなのである。
「大丈夫か?」
 と私は言った。
「私がまいりますけど、子供を連れて行くのは、たいへんですから、あなたが家にいらして、子供たちを見ていて下さい。お米だけでも、なかなか重いんです。」
 家の者の眼には、涙が光っていた。
 おなかにも子供がいるし、背中にひとりおんぶして、もうひとりの子の手をひいて、そうして自身もかぜ気味で、一斗ちかいお米を運ぶ苦難は、その涙を見るまでもなく、私にもわかっている。
「いるさ。いるよ。家にいるよ。」
 それから、三十分くらい経って、
「ごめん下さい。」
 と玄関で女のひとの声がして、私が出て見ると、それは三鷹《みたか》の或るおでんやの女中であった。
「前田さんが、お見えになっていますけど。」
「あ、そう。」
 部屋の出口の壁に吊り下げられている二重廻しに、私はもう手をかけていた。
 とっさに、うまい嘘《うそ》も思いつかず、私は隣室の家の者には一言も、何も言わず、二重廻しを羽織って、それから机の引出しを掻《か》きまわし、お金はあまり無かったので、けさ雑誌社から送られて来たばかりの小為替《こがわせ》を三枚、その封筒のまま二重廻しのポケットにねじ込み、外に出た。
 外には、上の女の子が立っていた。子供のほうで、間《ま》の悪そうな顔をしていた。
「前田さんが? ひとりで?」
 私はわざと子供を無視して、おでんやの女中にたずねた。
「ええ。ちょっとでいいから、おめにかかりたいって。」
「そう。」
 私たちは子供を残して、いそぎ足で歩いた。
 前田さんとは、四十を越えた女性であった。永い事、有楽町の新聞社に勤めていたという。しかし、いまは何をしているのか、私にもわからない。そのひとは、二週間ほど前、年の暮に、そのおでんやに食事をしに来て、その時、私は、年少の友人ふたりを相手に泥酔《でいすい》していて、ふとその女のひとに話しかけ、私たちの席に参加してもらって、私はそのひとと握手をした、それだけの附合いしか無かったのであるが、
「遊ぼう。これから、遊ぼう。大いに、遊ぼう。」
 と私がそのひとに言った時に、
「あまり遊べない人に限って、そんなに意気込むものですよ。ふだんケチケチ働いてばかりいるんでしょう?」
 とそのひとが普通の音声で、落ちついて言った。
 私は、どきりとして、
「よし、そんならこんど逢った時、僕の徹底的な遊び振りを見せてあげる。」
 と言ったが、内心は、いやなおばさんだと思った。私の口から言うのもおかしいだろうが、こんなひとこそ、ほんものの不健康というものではなかろうかと思った。私は苦悶《くもん》の無い遊びを憎悪する。よく学び、よく遊ぶ、その遊びを肯定する事が出来ても、ただ遊ぶひと、それほど私をいらいらさせる人種はいない。
 ばかな奴だと思った。しかし、私も、ばかであった。負けたくなかった。偉そうな事を言ったって、こいつは、どうせ俗物に違いないんだ。この次には、うんと引っぱり歩いて、こづきまわして、面皮をひんむいてやろうと思った。
 いつでもお相手をするから、気のむいたときに、このおでんやに来て、そうして女中を使って僕を呼び出しなさい、と言って、握手をしてわかれたのを、私は泥酔していても、忘れてはいなかった。
 と書けば、いかにも私ひとり高潔の、いい子のようになってしまうが、しかし、やっぱり、泥酔の果の下等な薄汚いお色気だけのせいであったのかも知れない。謂《い》わば、同臭相寄るという醜怪な図に過ぎなかったのかも知れない。
 私は、その不健康な、悪魔の許《もと》にいそいで出掛けた。
「おめでとう。新年おめでとう。」
 私はそんな事を前田さんに、てれ隠しに言った。
 前田さんは、前は洋装であったが、こんどは和服であった。おでんやの土間の椅子に腰かけて、煙草を吸っていた。痩《や》せて、背の高いひとであった。顔は細長くて蒼白く、おしろいも口紅もつけていないようで、薄い唇は白く乾いている感じであった。かなり度の強い近眼鏡をかけ、そうして眉間《みけん》には深い縦皺《たてじわ》がきざまれていた。要するに、私の最も好かない種属の容色であった。先夜の酔眼には、も少しましなひ
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング