たが下手なの、わからないわね。もういいの。あたし、こんなところに、しばらく坐っているうちに、なんだか、また、人が変っちゃったらしいの。こんな、どん底にいると、いけないらしいの。あたし、弱いから、周囲の空気に、すぐ影響されて、馴れてしまうのね。あたし、下品になっちゃったわ。ぐんぐん心が、くだらなく、堕落して、まるで、もう」と言いかけて、ぎゅっと口を噤《つぐ》んでしまいました。プロステチウト、そう言おうと思っていたのでございます。女が永遠に口に出して言ってはいけない言葉。そうして一度は、必ず、それの思いに悩まされる言葉。まるっきり誇を失ったとき、女は、必ずそれを思う。私は、こんな吹出物して、心まで鬼になってしまっているのだな、と実状が薄ぼんやり判って来て、私が今まで、おたふく、おたふくと言って、すべてに自信が無い態《てい》を装っていたが、けれども、やはり自分の皮膚だけを、それだけは、こっそり、いとおしみ、それが唯一のプライドだったのだということを、いま知らされ、私の自負していた謙譲だの、つつましさだの、忍従だのも、案外あてにならない贋物《にせもの》で、内実は私も知覚、感触の一喜一憂だけで、めくらのように生きていたあわれな女だったのだと気附いて、知覚、感触が、どんなに鋭敏だっても、それは動物的なものなのだ、ちっとも叡智《えいち》と関係ない。全く、愚鈍な白痴でしか無いのだ、とはっきり自身を知りました。
 私は、間違っていたのでございます。私は、これでも自身の知覚のデリケエトを、なんだか高尚のことに思って、それを頭のよさと思いちがいして、こっそり自身をいたわっていたところ、なかったか。私は、結局は、おろかな、頭のわるい女ですのね。
「いろんなことを考えたのよ。あたし、ばかだわ。あたし、しんから狂っていたの。」
「むりがねえよ。わかるさ。」あの人は、ほんとうに、わかってるみたいに、賢こそうな笑顔で答えて、「おい、おれたちの番だぜ。」
 看護婦に招かれて、診察室へはいり、帯をほどいてひと思いに肌ぬぎになり、ちらと自分の乳房を見て、私は、石榴《ざくろ》を見ちゃった。眼のまえに坐っているお医者よりも、うしろに立っている看護婦さんに見られるのが、幾そう倍も辛うございました。お医者は、やっぱり人の感じがしないものだと思いました。顔の印象さえ、私には、はっきりいたしませぬ。お医者のほうでも、私を人の扱いせず、あちこちひねくって、
「中毒ですよ。何か、わるいものを食べたのでしょう。」平気な声で、そう言いました。
「なおりましょうか。」
 あの人が、たずねて呉れて、
「なおります。」
 私は、ぼんやり、ちがう部屋にいるような気持で、聞いていたのでございます。
「ひとりで、めそめそ泣いていやがるので、見ちゃ居れねえのです。」
「すぐ、なおりますよ。注射しましょう。」
 お医者は、立ち上りました。
「単純な、ものなのですか?」とあの人。
「そうですとも。」
 注射してもらって、私たちは病院を出ました。
「もう手のほうは、なおっちゃった。」
 私は、なんども陽の光に両手をかざして、眺めました。
「うれしいか?」
 そう言われて私は、恥ずかしく思いました。



底本:「きりぎりす」新潮文庫、新潮社
   1974(昭和49)年9月30日初版発行
初出:「文学界」
   1939(昭和14)年11月
入力:深山香里
校正:佐々木春夫
1999年2月4日公開
2009年3月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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