時間がすんでから、私はお友達と議論をしてしまいました。痛さと、くすぐったさと、痒さと、三つのうちで、どれが一ばん苦しいか。そんな論題が出て、私は断然、痒さが最もおそろしいと主張いたしました。だって、そうでしょう? 痛さも、くすぐったさも、おのずから知覚の限度があると思います。ぶたれて、切られて、または、くすぐられても、その苦しさが極限に達したとき、人は、きっと気を失うにちがいない。気を失ったら夢幻境です。昇天でございます。苦しさから、きれいにのがれる事ができるのです。死んだって、かまわないじゃないですか。けれども痒さは、波のうねりのようで、もりあがっては崩れ、もりあがっては崩れ、果しなく鈍く蛇動《だどう》し、蠢動《しゅんどう》するばかりで、苦しさが、ぎりぎり結着の頂点まで突き上げてしまう様なことは決してないので、気を失うこともできず、もちろん痒さで死ぬなんてことも無いでしょうし、永久になまぬるく、悶えていなければならぬのです。これは、なんといっても、痒さにまさる苦しみはございますまい。私がもし昔のお白州《しらす》で拷問かけられても、切られたり、ぶたれたり、また、くすぐられたり、そんなこ
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