床をそそくさと取りかたづけていた。ほのぐらい電燈の下の青扇の顔は、おやと思ったほど老けて見えた。
「もうおやすみですか。」
「え。いいえ。かまいません。一日いっぱい寝ているのです。ほんとうに。こうして寝ているといちばん金がかからないものですから。」そんなことを言い言い、どうやら部屋をかたづけてしまったらしく、走るようにして玄関へ出て来た。「どうも、しばらくです。」
僕の顔をろくろく見もせず、すぐうつむいてしまった。
「屋賃は当分だめですよ。」だしぬけに言ったのである。
僕は流石《さすが》にむっとした。わざと返事をしなかった。
「マダムが逃げました。」玄関の障子《しょうじ》によりそってしずかにしゃがみこんだ。電燈のあかりを背面から受けているので青扇の顔はただまっくろに見えるのである。
「どうしてです。」僕はどきっとしたのだ。
「きらわれましたよ。ほかに男ができたのでしょう。そんな女なのです。」いつもに似ず言葉の調子がはきはきしていた。
「いつごろです。」僕は玄関の式台に腰をおろした。
「さあ、先月の中旬ごろだったでしょうか。あがらない?」
「いいえ。きょうは他に用事もあるし。」僕には少し薄気味がわるかったのである。
「恥かしいことでしょうけれど、私は、女の親元からの仕送りで生活していたのです。それがこんなになって。」
せかせか言いつづける青扇の態度に、一刻もはやく客を追いかえそうとしている気がまえを見てとった。僕はわざわざ袂《たもと》から煙草をとりだし、マッチがありませんか? と言ってやったのである。青扇はだまって勝手元のほうへ立って行って、大箱の徳用マッチを持って来た。
「なぜ働かないのかしら?」僕は煙草をくゆらしながら、いまからゆっくり話込んでやろうとひそかに決意していた。
「働けないからです。才能がないのでしょう。」相変らずてきぱきした語調であった。
「冗談じゃない。」
「いいえ。働けたらねえ。」
僕は青扇が思いのほかに素直な気質を持っていることを知ったのである。胸もつまったけれど、このまま彼に同情していては、屋賃のことがどうにもならぬのだ。僕はおのれの気持ちをはげました。
「それでは困るじゃないですか。僕のほうも困るし、あなただっていつまでもこうしている訳にいきますまい。」吸いかけの煙草を土間へ投げつけた。赤い火花がセメントのたたきにぱっと散りひろがって、消えた。
「ええ。それは、なんとかします。あてがあります。あなたには感謝しています。もうすこし待っていただけないでしょうか。もうすこし。」
僕は二本目の煙草をくわえ、またマッチをすった。さっきから気にかかっていた青扇の顔をそのマッチのあかりでちらと覗いてみることができた。僕は思わずぽろっと、燃えるマッチをとり落したのである。悪鬼の面を見たからであった。
「それでは、いずれまた参ります。ないものは頂戴いたしません。」僕はいますぐここからのがれたかった。
「そうですか。どうもわざわざ。」青扇は神妙にそう言って、立ちあがった。それからひとりごとのように呟《つぶや》くのである。「四十二の一白水星。気の多いとしまわりで弱ります。」
僕はころげるようにして青扇の家から出て、夢中で家路をいそいだものだ。けれど少しずつ落ちつくにつれて、なんだか莫迦《ばか》をみたというような気がだんだんと起って来たのである。また一杯くわされた。青扇の思い詰めたようなはっきりした口調も、四十二歳をそれとなく呟いたことも、みんな堪らないほどわざとらしくきざっぽく思われだした。僕はどうも少し甘いようだ。こんなゆるんだ性質では家主はとてもつとまるものではないな、と考えた。
僕はそれから二三日、青扇のことばかりを考えてくらした。僕も父親の遺産のおかげで、こうしてただのらくらと一日一日を送っていて、べつにつとめをするという気も起らず、青扇の働けたらねえという述懐も、僕には判らぬこともないのであるが、けれど青扇がほんとうにいま一文も収入のあてがなくて暮しているのだとすれば、それだけでもすでにありふれた精神でない。いや、精神などというと立派に聞えるが、とにかくそうとう図太い根性である。もうこうなったうえは、どうにかしてあいつの正体らしいものをつきとめてやらなければ安心ができないと考えたのだ。
五月がすぎて、六月になっても、やはり青扇からはなんの挨拶もないのであった。僕はまた彼の家に出むいて行かなければならなかったのである。
その日、青扇はスポオツマンらしく、襟《えり》附きのワイシャツに白いズボンをはいて、何かてれくさそうに恥らいながら出て来た。家ぜんたいが明るい感じであった。六畳間にとおされて、見ると、部屋の床の間寄りの隅にいつ買いいれたのか鼠いろの天鵞絨《ビロード》が張られた古ものらしいソファがあり、しかも畳のうえには淡緑色の絨氈《じゅうたん》が敷かれていた。部屋のおもむきが一変していたのである。青扇は僕をソファに坐らせた。
庭の百日紅《さるすべり》は、そろそろ猩々緋《しょうじょうひ》の花をひらきかけていた。
「いつも、ほんとうに相すみません。こんどは大丈夫ですよ。しごとが見つかりました。おい、ていちゃん。」青扇は僕とならんでソファに腰をおろしてから、隣りの部屋へ声をかけたのである。
水兵服を着た小柄な女が、四畳半のほうから、ぴょこんと出て来た。丸顔の健康そうな頬をした少女であった。眼もおそれを知らぬようにきょとんと澄んでいた。
「おおやさんだよ。ご挨拶をおし。うちの女です。」
僕はおやおやと思った。先刻の青扇の恥らいをふくんだ微笑《ほほえ》みの意味がとけたのであった。
「どんなお仕事でしょう。」
その少女がまた隣りの部屋にひっこんでから、僕は、ことさらに生野暮をよそって仕事のことをたずねてやった。きょうばかりは化かされまいぞと用心をしていたのである。
「小説です。」
「え?」
「いいえ。むかしから私は、文学を勉強していたのですよ。ようやくこのごろ芽が出たのです。実話を書きます。」澄ましこんでいた。
「実話と言いますと?」僕はしつこく尋ねた。
「つまり、ないことを事実あったとして報告するのです。なんでもないのさ。何県何村何番地とか、大正何年何月何日とか、その頃の新聞で知っているであろうがとかいう文句を忘れずにいれて置いてあとは、必ずないことを書きます。つまり小説ですねえ。」
青扇は彼の新妻のことで流石《さすが》にいくぶん気おくれしているのか、僕の視線を避けるようにして、長い頭髪のふけを掻《か》き落したり膝《ひざ》をなんども組み直したりなどしながら、少し雄弁をふるったのである。
「ほんとうによいのですか。困りますよ。」
「大丈夫。大丈夫。ええ。」僕の言葉をさえぎるようにして大丈夫を繰りかえし、そうしてほがらかに笑っていた。僕は、信じた。
そのとき、さきの少女が紅茶の銀盆をささげてはいって来たのだ。
「あなた、ごらんなさい。」青扇は紅茶の茶碗を受けとって僕に手渡し自分の茶碗を受けとりしなに、そう言ってうしろを振りむいた。床の間には、もう北斗七星の掛軸がなくなっていて、高さが一尺くらいの石膏《せっこう》の胸像がひとつ置かれてあった。胸像のかたわらには、鶏頭《けいとう》の花が咲いていた。少女は耳の附け根まであかくなった顔を錆《さ》びた銀盆で半分かくし、瞳の茶色なおおきい眼を更におおきくして彼を睨《にら》んだ。青扇はその視線を片手で払いのけるようにしながら、
「その胸像の額をごらんください。よごれているでしょう? 仕様がないんです。」
少女は眼にもとまらぬくらいの素早さで部屋から飛び出た。
「どうしたのです。」僕には訳がわからなかった。
「なに。てい子のむかしのあれの胸像なんだそうです。たったひとつの嫁入り道具ですよ。キスするのです。」こともなげに笑っていた。
僕はいやな気がした。
「おいやのようですね。けれども世の中はこんな工合いになっているのです。仕様がありませんよ。見ていると感心に花を毎日とりかえます。きのうはダリヤでした。おとといは蛍草でした。いや、アマリリスだったかな。コスモスだったかしら。」
この手だ。こんな調子にまたうかうか乗せられたなら、前のように肩すかしを食わされるのである。そう気づいたゆえ、僕は意地悪くかかって、それにとりあってやらなかったのだ。
「いや。お仕事のほうは、もうはじめているのですか?」
「ああ、それは、」紅茶を一口すすった。「そろそろはじめていますけれど、大丈夫ですよ。私はほんとうは、文学書生なんですからね。」
僕は紅茶の茶碗の置きどころを捜しながら、
「でもあなたの、ほんとうは、は、あてになりませんからね。ほんとうは、というそんな言葉でまたひとつ嘘の上塗りをしているようで。」
「や、これは痛い。そうぽんぽん事実を突きたがるものじゃないな。私はね、むかし森鴎外、ご存じでしょう? あの先生についたものですよ。あの青年という小説の主人公は私なのです。」
これは僕にも意外であった。僕もその小説は余程まえにいちど読んだことがあって、あのかそけきロマンチシズムは、永く僕の心をとらえ離さなかったものであるが、けれどもあのなかのあまりにもよろずに綺麗《きれい》すぎる主人公にモデルがあったとは知らなかったのである。老人の頭ででっちあげられた青年であるから、こんなに綺麗すぎたのであろう。ほんとうの青年は猜忌《さいき》や打算もつよく、もっと息苦しいものなのに、と僕にとって不満でもあったあの水蓮《すいれん》のような青年は、それではこの青扇だったのか。そう興奮しかけたけれど、すぐいやいやと用心したのである。
「はじめて聞きました。でもあれは、失礼ですが、もっとおっとりしたお坊ちゃんのようでしたけれど。」
「これは、ひどいなあ。」青扇は僕が持ちあぐんでいた紅茶の茶碗をそっと取りあげ、自分のと一緒にソファの下へかたづけた。「あの時代には、あれでよかったのです。でも今ではあの青年も、こんなになってしまうのです。私だけではないと思うのですが。」
僕は青扇の顔を見直した。
「それはつまり抽象して言っているのでしょうか。」
「いいえ。」青扇はいぶかしそうに僕の瞳を覗いた。「私のことを言っているのですけれど?」
僕はまたまた憐愍《れんびん》に似た情を感じたのである。
「まあ、きょうは僕はこれで帰りましょう。きっとお仕事をはじめて下さい。」そう言い置いて、青扇の家を出たのであるが、帰途、青扇の成功をいのらずにおれなかった。それは、青年についての青扇の言葉がなんだか僕のからだにしみついて来て、自分ながらおかしいほどしおれてしまったせいでもあるし、また、青扇のあらたな結婚によって何やら彼の幸福を祈ってやりたいような気持ちになっていたせいでもあろう。みちみち僕は思案した。あの屋賃を取りたてないからといって、べつに僕にとって生活に窮するというわけではない。たかだか小使銭の不自由くらいのものである。これはひとつ、あのめぐまれない老いた青年のために僕のその不自由をしのんでやろう。
僕はどうも芸術家というものに心をひかれる欠点を持っているようだ。ことにもその男が、世の中から正当に言われていない場合には、いっそう胸がときめくのである。青扇がほんとうにいま芽が出かかっているものとすれば、屋賃などのことで彼の心持ちをにごらすのは、いけないことだ。これは、いますこしそっとして置いたほうがよい。彼の出世をたのしもう。僕は、そのときふと口をついて出た He is not what he was. という言葉をたいへんよろこばしく感じたのである。僕が中学校にはいっていたとき、この文句を英文法の教科書のなかに見つけて心をさわがせ、そしてこの文句はまた、僕が中学五年間を通じて受けた教育のうちでいまだに忘れられぬ唯一の智識なのであるが、訪れるたびごとに何か驚異と感慨をあらたにしてくれる青扇と、この文法の作例として記されていた一句とを思い合せ、僕は青扇に対してある異状な期待を持ちはじめたのである。
けれ
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