は、」紅茶を一口すすった。「そろそろはじめていますけれど、大丈夫ですよ。私はほんとうは、文学書生なんですからね。」
 僕は紅茶の茶碗の置きどころを捜しながら、
「でもあなたの、ほんとうは、は、あてになりませんからね。ほんとうは、というそんな言葉でまたひとつ嘘の上塗りをしているようで。」
「や、これは痛い。そうぽんぽん事実を突きたがるものじゃないな。私はね、むかし森鴎外、ご存じでしょう? あの先生についたものですよ。あの青年という小説の主人公は私なのです。」
 これは僕にも意外であった。僕もその小説は余程まえにいちど読んだことがあって、あのかそけきロマンチシズムは、永く僕の心をとらえ離さなかったものであるが、けれどもあのなかのあまりにもよろずに綺麗《きれい》すぎる主人公にモデルがあったとは知らなかったのである。老人の頭ででっちあげられた青年であるから、こんなに綺麗すぎたのであろう。ほんとうの青年は猜忌《さいき》や打算もつよく、もっと息苦しいものなのに、と僕にとって不満でもあったあの水蓮《すいれん》のような青年は、それではこの青扇だったのか。そう興奮しかけたけれど、すぐいやいやと用心したの
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