の隅に落ちるだろう? 君はもはや、その箇所にある井戸を見つめている。いや、井戸の水を吸上|喞筒《ポンプ》で汲《く》みだしている若い女を見つめている。それでよいのだ。はじめから僕は、あの女を君に見せたかったのである。
 まっ白いエプロンを掛けている。あれはマダムだ。水を汲みおわって、バケツを右の手に持って、そうしてよろよろと歩きだす。どの家へはいるだろう。空地の東側には、ふとい孟宗竹《もうそうちく》が二三十本むらがって生えている。見ていたまえ。女は、あの孟宗竹のあいだをくぐって、それから、ふっと姿をかき消す。それ。僕の言ったとおりだろう? 見えなくなった。けれど気にすることはない。僕はあの女の行くさきを知っている。孟宗竹のうしろは、なんだかぼんやり赤いだろう。紅梅が二本あるのだ。蕾《つぼみ》がふくらみはじめたにちがいない。あのうすあかい霞《かすみ》の下に、黒い日本甍の屋根が見える。あの屋根だ。あの屋根のしたに、いまの女と、それから彼女の亭主とが寝起している。なんの奇もない屋根のしたに、知らせて置きたい生活がある。ここへ坐ろう。

 あの家は元来、僕のものだ。三畳と四畳半と六畳と、三間ある
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