いう恰好の方法があるよ。まずまあ、この町内では有名になれる。人の細君と駈落ちしたまえ。え?」
僕はどうでもよかった。酒に酔ったときの青扇の顔は僕には美しく思われた。この顔はありふれていない。僕はふとプーシュキンを思い出したのである。どこかで見たことのある顔と思っていたのであるが、これはたしかに、えはがきやの店頭で見たプーシュキンの顔なのであった。みずみずしい眉のうえに、老いつかれた深い皺が幾きれも刻まれてあったあのプーシュキンの死面なのである。
僕もしたたかに酔ったようであった。とうとう、僕は懐中の切手を出し、それでもってお蕎麦屋から酒をとどけさせたのである。そうして僕たちは更に更にのんだのである。ひとと始めて知り合ったときのあの浮気に似たときめきが、ふたりを気張らせ、無智な雄弁によってもっともっとおのれを相手に知らせたいというようなじれったさを僕たちはお互いに感じ合っていたようである。僕たちは、たくさんの贋《にせ》の感激をして、幾度となく杯をやりとりした。気がついたときには、もうマダムはいなかった。寝てしまったのであろう。帰らなければなるまい、と僕は考えた。帰りしなに握手をした。
「君を好きだ。」僕はそう言った。
「私も君を好きなのだよ。」青扇もそう答えたようである。
「よし。万歳!」
「万歳。」
たしかにそんな工合いであったようである。僕には、酔いどれると万歳と叫びたてる悪癖があるのだ。
酒がよくなかった。いや、やっぱり僕がお調子ものだったからであろう。そのままずるずると僕たちのおかしなつきあいがはじまったのである。泥酔《でいすい》した翌《あく》る日いちにち、僕は狐《きつね》か狸《たぬき》にでも化かされたようなぼんやりした気持ちであった。青扇は、どうしても普通でない。僕もこのとしになるまで、まだ独身で毎日毎日をぶらりぶらり遊んですごしているゆえ、親類縁者たちから変人あつかいを受けていやしめられているのであるが、けれども僕の頭脳はあくまで常識的である。妥協的である。通常の道徳を奉じて生きて来た。謂《い》わば、健康でさえある。それにくらべて青扇は、どうやら、けたがはずれているようではないか。断じてよい市民ではないようである。僕は青扇の家主として、彼の正体のはっきり判るまではすこし遠ざかっていたほうがいろいろと都合がよいのではあるまいか、そうも考えられて、それから四五日のあいだは知らぬふりをしていた。
ところが、引越して一週間くらいたったころに、青扇とまた逢ってしまった。それが銭湯屋の湯槽《ゆぶね》のなかである。僕が風呂の流し場に足を踏みいれたとたんに、やあ、と大声をあげたものがいた。ひるすぎの風呂には他のひとの影がなかった。青扇がひとり湯槽につかっていたのである。僕はあわててしまい、あがり湯のカランのまえにしゃがんで石鹸をてのひらに塗り無数の泡を作った。よほどあわてていたものとみえる。はっと気づいたけれど、僕はそれでもわざとゆっくり、カランから湯を出して、てのひらの泡を洗いおとし、湯槽へはいった。
「先晩はどうも。」僕は流石《さすが》に恥かしい思いであった。
「いいえ。」青扇はすましこんでいた。「あなた、これは木曾川の上流ですよ。」
僕は、青扇の瞳の方向によって、彼が湯槽のうえのペンキ画について言っているのだということを知った。
「ペンキ画のほうがよいのですよ。ほんとうの木曾川よりはね。いいえ。ペンキ画だからよいのでしょう。」そう言いながら僕をふりかえってみて微笑んだ。
「ええ。」僕も微笑んだ。彼の言葉の意味がわからなかったのである。
「これでも苦労したものですよ。良心のある画ですね。これを画いたペンキ屋の奴、この風呂へは、決して来ませんよ。」
「来るのじゃないでしょうか。自分の画を眺めながら、しずかにお湯にひたっているというのもわるくないでしょう。」
僕のそういったような言葉はどうやら青扇の侮蔑《ぶべつ》を買ったらしく彼は、さあ、と言ったきりで、自分の両手の手の甲をそろっと並べ、十枚の爪を眺めていた。
青扇は、さきに風呂から出た。僕は湯槽のお湯にひたりながら、脱衣場にいる青扇をそれとなく見ていた。きょうは鼠いろの紬《つむぎ》の袷を着ている。彼があまりにも永く自分のすがたを鏡にうつしてみているのには、おどろかされた。やがて、僕も風呂から出たのであるが、青扇は、脱衣場の隅の椅子にひっそり坐って煙草をくゆらしながら僕を待っていてくれた。僕はなんだか息苦しい気持ちがした。ふたり一緒に銭湯屋を出て、みちみち彼はこんなことを呟いた。
「はだかのすがたを見ないうちは気を許せないのです。いいえ。男と男とのあいだのことですよ。」
その日、僕は誘われるがままに、また青扇のもとを訪れた。途中、青扇とわかれ、いったん僕の家へ寄り頭
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