髪の手入れなどを少しして、それから約束したとおり、すぐに青扇のうちへ出かけたのである。けれども青扇はいなかったのだ。マダムがひとりいた。入日のあたる縁側で夕刊を読んでいたのである。僕は玄関のわきの枝折戸をあけて、小庭をつき切り、縁先に立った。いないのですか、と聞いてみると、
「ええ。」新聞から眼を離さずにそう答えた。下唇をつよく噛んで、不気嫌であった。
「まだ風呂から帰らないのですか?」
「そう。」
「はて。僕と風呂で一緒になりましてね。遊びに来いとおっしゃったものですから。」
「あてになりませんのでございますよ。」恥かしそうに笑って、夕刊のペエジを繰った。
「それでは、しつれいいたします。」
「あら。すこしお待ちになったら? お茶でもめしあがれ。」マダムは夕刊を畳んで僕のほうへのべてよこした。
僕は縁側に腰をおろした。庭の紅梅の粒々の蕾《つぼみ》は、ふくらんでいた。
「木下を信用しないほうがよござんすよ。」
だしぬけに耳のそばでそう囁《ささや》かれて、ぎょっとした。マダムは僕にお茶をすすめた。
「なぜですか?」僕はまじめであった。
「だめなんですの。」片方の眉をきゅっとあげて小さい溜息《ためいき》を吐いたのである。
僕は危く失笑しかけた。青扇が日頃、へんな自矜《じきょう》の怠惰にふけっているのを真似て、この女も、なにかしら特異な才能のある夫にかしずくことの苦労をそれとなく誇っているのにちがいないと思ったのである。爽快《そうかい》な嘘を吐くものかなと僕は内心おかしかった。けれどこれしきの嘘には僕も負けてはいないのである。
「出鱈目は、天才の特質のひとつだと言われていますけれど。その瞬間瞬間の真実だけを言うのです。豹変《ひょうへん》という言葉がありますね。わるくいえばオポチュニストです。」
「天才だなんて。まさか。」マダムは、僕のお茶の飲みさしを庭に捨てて、代りをいれた。
僕は湯あがりのせいで、のどが渇いていた。熱い番茶をすすりながら、どうして天才でないことを言い切れるか、と追及してみた。はじめから、少しでも青扇の正体らしいものをさぐり出そうとかかっていたわけである。
「威張るのですの。」そういう返事であった。
「そうですか。」僕は笑ってしまった。
この女も青扇とおなじように、うんと利巧かうんと莫迦《ばか》かどちらかであろう。とにかく話にならないと思ったのだ
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