、あなた、何をしていらっしゃる。」
 豆ランプの光で見るスズメの顔は醜《みに》くかった。森ちゃんが、こいしい。
「ひとりで、こわかったんだよ。」
「闇屋さん、闇におどろく。」
 自分があのお金を、何か闇商売でもやってもうけたものと、スズメが思い込んでいるらしいのを知って、鶴は、ちょっと気が軽くなり、はしゃぎたくなった。
「酒は?」
「女中さんにたのみました。すぐ持ってまいりますって。このごろは、へんに、ややこしくって、いやねえ。」
 ウイスキイ、つまみもの、煙草。女中は、盗人の如《ごと》く足音を忍ばせて持ち運んで来た。
「おしずかに、お飲みになって下さいよ。」
「心得ている。」
 鶴は、大闇師のように、泰然《たいぜん》とそう答えて、笑った。

  その下には紺碧《こんぺき》にまさる青き流れ、
  その上には黄金《こがね》なす陽の光。
  されど、
  憩《いこ》いを知らぬ帆は、
  嵐の中にこそ平穏のあるが如くに、
  せつに狂瀾怒濤《きょうらんどとう》をのみ求むる也《なり》。

 あわれ、あらしに憩いありとや。鶴は所謂《いわゆる》文学青年では無い。頗《すこぶ》るのんきな、スポーツマンである。けれども、恋人の森ちゃんは、いつも文学の本を一冊か二冊、ハンドバッグの中に入れて持って歩いて、そうしてけさの、井の頭公園のあいびきの時も、レエルモントフとかいう、二十八歳で決闘して倒れたロシヤの天才詩人の詩集を鶴に読んで聞かせて、詩などには、ちっとも何も興味の無かった鶴も、その詩集の中の詩は、すべて大いに気にいって、殊《こと》にも「帆」という題の若々しく乱暴な詩は、最も彼の現在の恋の心にぴったりと来たのだそうで、彼は森ちゃんに命じて何度も何度も繰りかえして朗読させたものである。
 嵐の中にこそ、平穏、……。あらしの中にこそ、……。
 鶴は、スズメを相手に、豆ランプの光のもとでウイスキイを飲み、しだいに楽しく酔って行った。午後十時ちかく、部屋の電燈がパッとついたが、しかし、その時にはもう、電燈の光も、豆ランプのほのかな光さえ、鶴には必要でなかった。
 あかつき。
 ドオウン。その気配を見た事のあるひとは知っているだろう。日の出以前のあの暁《ドオウン》の気配は、決して爽快《そうかい》なものではない。おどろおどろ神々の怒りの太鼓の音が聞えて、朝日の光とまるっきり違う何の光か、ねばっこい小豆《あずき》色の光が、樹々の梢《こずえ》を血なま臭く染める。陰惨、酸鼻《さんび》の気配に近い。
 鶴は、厠《かわや》の窓から秋のドオウンの凄《すご》さを見て、胸が張り裂けそうになり、亡者のように顔色を失い、ふらふら部屋へ帰り、口をあけて眠りこけているスズメの枕元にあぐらをかき、ゆうべのウイスキイの残りを立てつづけにあおる。
 金はまだある。
 酔いが発して来て、蒲団《ふとん》にもぐり込み、スズメを抱く。寝ながら、またウイスキイをあおる。とろとろと浅く眠る。眼がさめる。にっちもさっちも行かない自分のいまの身の上が、いやにハッキリ自覚せられ、額《ひたい》に油汗がわいて出て来て、悶《もだ》え、スズメにさらにウイスキイを一本買わせる。飲む。抱く。とろとろ眠る。眼がさめると、また飲む。
 やがて夕方、ウイスキイを一口飲みかけても吐きそうになり、
「帰る。」
 と、苦しい息の下から一ことそう言うのさえやっとで、何か冗談を言おうと思っても、すぐ吐きそうになり、黙って這《は》うようにして衣服を取りまとめ、スズメに手伝わせて、どうやら身なりを整え、絶えず吐き気とたたかいながら、つまずき、よろめき、日本橋の待合「さくら」を出た。
 外は冬ちかい黄昏《たそがれ》。あれから、一昼夜。橋のたもとの、夕刊を買う人の行列の中にはいる。三種類の夕刊を買う。片端から調べる。出ていない。出ていないのが、かえって不安であった。記事差止め。秘密裡に犯人を追跡しているのに違い無い。
 こうしては、おられない。金のある限りは逃げて、そうして最後は自殺だ。
 鶴は、つかまえられて、そうして肉親の者たち、会社の者たちに、怒られ悲しまれ、気味悪がられ、ののしられ、うらみを言われるのが、何としても、イヤで、おそろしくてたまらなかった。
 しかし、疲れている。
 まだ、新聞には出ていない。
 鶴は度胸をきめて、会社の世田谷の寮に立ち向う。自分の巣で一晩ぐっすり眠りたかった。
 寮では六畳一間に、同僚と三人で寝起きしている。同僚たちは、まちに遊びに出たらしく、留守である。この辺は所謂《いわゆる》便乗線とかいうものなのか、電燈はつく。鶴の机の上には、コップに投げいれられた銭菊《ぜにぎく》が、少し花弁が黒ずんでしなびたまま、主人の帰りを待っていた。
 黙って蒲団をひいて、電燈を消して、寝た、が、すぐまた起きて、電燈をつけ
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