いて彼の会社の名を告げ、スズメに用事がある、と少し顔を赤くして言い、女中にも誰にもあやしまれず、奥の二階の部屋に通され、早速ドテラに着かえながら、お風呂は? とたずね、どうぞ、と案内せられ、その時、
「ひとりものは、つらいよ。ついでにお洗濯だ。」
 とはにかんだ顔をして言って、すこし血痕《けっこん》のついているワイシャツとカラアをかかえ込み、
「あら、こちらで致しますわ。」
 と女中に言われて、
「いや、馴《な》れているんです。うまいものです。」
 と極めて自然に断る。
 血痕はなかなか落ちなかった。洗濯をすまし、鬚《ひげ》を剃《そ》って、いい男になり、部屋へ帰って、洗濯物は衣桁《いこう》にかけ、他の衣類をたんねんに調べて血痕のついていないのを見とどけ、それからお茶をつづけさまに三杯飲み、ごろりと寝ころがって眼をとじたが、寝ておられず、むっくり起き上ったところへ、素人《しろうと》ふうに装ったスズメがやって来て、
「おや、しばらく。」
「酒が手にはいらないかね。」
「はいりますでしょう。ウイスキイでも、いいの?」
「かまわない。買ってくれ。」
 ジャンパーのポケットから、一つかみの百円紙幣を取り出して、投げてやる。
「こんなに、たくさん要《い》らないわよ。」
「要るだけ、とればいいじゃないか。」
「おあずかり致します。」
「ついでに、たばこもね。」
「たばこは?」
「軽いのがいい。手巻きは、ごめんだよ。」
 スズメが部屋から出て行ったとたんに、停電。まっくら闇の中で、鶴は、にわかにおそろしくなった。ひそひそ何か話声が聞える。しかし、それは空耳だった。廊下で、忍ぶ足音が聞える。しかし、それも空耳であった。鶴は呼吸が苦しく、大声挙げて泣きたいと思ったが、一滴の涙も出なかった。ただ、胸の鼓動が異様に劇《はげ》しく、脚が抜けるようにだるかった。鶴は寝ころび、右腕を両眼に強く押しあて、泣く真似をした。そうして小声で、森ちゃんごめんよ、と言った。
「こんばんは。慶ちゃん。」鶴の名は、慶助である。
 蚊《か》の泣くような細い女の声で、そう言うのを、たしかに聞き、髪の逆立つ思いで狂ったようにはね起き、襖《ふすま》をあけて廊下に飛び出た。廊下は、しんの闇で、遠くから幽《かす》かに電車の音が聞えた。
 階段の下が、ほの明るくなり、豆ランプを持ったスズメがあらわれ、鶴を見ておどろき、
「ま
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