突き刺した。
 部屋。
 鶴は会社の世田谷の寮にいた。六畳一間に、同僚と三人の起居である。森ちゃんは高円寺の、叔母《おば》の家に寄寓《きぐう》。会社から帰ると、女中がわりに立ち働く。
 鶴の姉は、三鷹《みたか》の小さい肉屋に嫁《とつ》いでいる。あそこの家の二階が二間。
 鶴はその日、森ちゃんを吉祥寺《きちじょうじ》駅まで送って、森ちゃんには高円寺行きの切符を、自分は三鷹行きの切符を買い、プラットフオムの混雑にまぎれて、そっと森ちゃんの手を握ってから、別れた。部屋を見つける、という意味で手を握ったのである。
「や、いらっしゃい。」
 店では小僧がひとり、肉切|庖丁《ぼうちょう》をといでいる。
「兄さんは?」
「おでかけです。」
「どこへ?」
「寄り合い。」
「また、飲みだな?」
 義兄は大酒飲みである。家で神妙に働いている事は珍らしい。
「姉さんはいるだろう。」
「ええ、二階でしょう?」
「あがるぜ。」
 姉は、ことしの春に生れた女の子に乳をふくませ添寝《そいね》していた。
「貸してもいいって、兄さんは言っていたんだよ。」
「そりゃそう言ったかも知れないけど、あのひとの一存では、きめられませんよ。私のほうにも都合があります。」
「どんな都合?」
「そんな事は、お前さんに言う必要は無い。」
「パンパンに貸すのか?」
「そうでしょう。」
「姉さん、僕はこんど結婚するんだぜ。たのむから貸してくれ。」
「お前さんの月給はいくらなの? 自分ひとりでも食べて行けないくせに。部屋代がいまどれくらいか、知ってるのかい。」
「そりゃ、女のひとにも、いくらか助けてもらって、……」
「鏡を見たことがある? 女にみつがせる顔かね。」
「そうか。いい。たのまない。」
 立って、二階から降り、あきらめきれず、むらむらと憎しみが燃えて逆上し、店の肉切庖丁を一本手にとって、
「姉さんが要《い》るそうだ。貸して。」
 と言い捨て階段をかけ上り、いきなり、やった。
 姉は声も立てずにたおれ、血は噴出して鶴の顔にかかる。部屋の隅《すみ》にあった子供のおしめで顔を拭《ふ》き、荒い呼吸をしながら下の部屋へ行き、店の売上げを入れてある手文庫から数千円わしづかみにしてジャンパーのポケットにねじ込み、店にはその時お客が二、三人かたまってはいって来て、小僧はいそがしく、
「お帰りですか?」
「そう。兄さんによろしく。
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