まだまだロマンチシズムは、残って在る筈《はず》だ。笠井さんは、ことし三十五歳である。けれども髪の毛も薄く、歯も欠けて、どうしても四十歳以上のひとのように見える。妻と子のために、また多少は、俗世間への見栄《みえ》のために、何もわからぬながら、ただ懸命に書いて、お金をもらって、いつとは無しに老けてしまった。笠井さんは、行い正しい紳士である、と作家仲間が、決定していた。事実、笠井さんは、良い夫、良い父である。生来の臆病と、過度の責任感の強さとが、笠井さんに、いわば良人《おっと》の貞操をも固く守らせていた。口下手ではあり、行動は極めて鈍重だし、そこは笠井さんも、あきらめていた。けれども、いま、おのれの芋虫に、うんじ果て、爆発して旅に出て、なかなか、めちゃな決意をしていた。何か光を。
 下諏訪まで、切符を買った。家を出て、まっすぐに上諏訪へ行き、わきめも振らずあの宿へ駈け込み、そうして、いきせき切って、あのひと、いますか、あのひと、いますか、と騒ぎたてる、そんな形になるのが、いやなので、わざと上諏訪から一つさきの下諏訪まで、切符を買った。笠井さんは、下諏訪には、まだいちども行ったことがない。けれども、そこで降りてみて、いいようだったら、そこで一泊して、それから多少、迂余曲折《うよきょくせつ》して、上諏訪のあの宿へ行こう、という、きざな、あさはかな気取りである。含羞《がんしゅう》でもあった。
 汽車に乗る。野も、畑も、緑の色が、うれきったバナナのような酸い匂いさえ感ぜられ、いちめんに春が爛熟《らんじゅく》していて、きたならしく、青みどろ、どろどろ溶けて氾濫《はんらん》していた。いったいに、この季節には、べとべと、噎《む》せるほどの体臭がある。
 汽車の中の笠井さんは、へんに悲しかった。われに救いあれ。みじんも冗談でなく、そんな大袈裟《おおげさ》な言葉を仰向いてこっそり呟《つぶや》いた程である。懐中には、五十円と少し在った。
「アンドレア・デル・サルトの、……」
 ばかに大きな声で、突然そんなことを言い出した人があるので、笠井さんは、うしろを振りむいた。登山服着た青年が二人、同じ身拵《みごしら》えの少女が三人。いま大声を発した男は、その一団のリイダア格の、ベレ帽をかぶった美青年である。少し日焼けして、仲々おしゃれであるが、下品である。
 アンドレア・デル・サルト。その名前を、そっ
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