あ、いい山だなあと、背を丸め、顎《あご》を突き出し、悲しそうに眉をひそめて、見とれている。あわれな姿である。その眼前の、凡庸《ぼんよう》な風景に、おめぐみ下さい、とつくづく祈っている姿である。蟹《かに》に、似ていた。四、五年まえまでの笠井さんは、決してこんな人ではなかったのである。すべての自然の風景を、理智に依《よ》って遮断し、取捨し、いささかも、それに溺《おぼ》れることなく、謂わば「既成概念的」な情緒を、薔薇《ばら》を、すみれを、虫の声を、風を、にやりと薄笑いして敬遠し、もっぱら、「我は人なり、人間の事とし聞けば、善きも悪しきも他所事《よそごと》とは思われず、そぞろに我が心を躍らしむ。」とばかりに、人の心の奥底を、ただそれだけを相手に、鈍刀ながらも獅子奮迅《ししふんじん》した、とかいう話であるが、いまは、まるで、だめである。呆然《ぼうぜん》としている。
 ――山よりほかに、……
 なぞという大時代的なばかな感慨にふけって、かすかに涙ぐんだりなんかして、ひどく、だらしない。しばらく、口あいて八が岳を見上げていて、そのうちに笠井さんも、どうやら自身のだらけ加減に気がついた様子で、独《ひと》りで、くるしく笑い出した。がりがり後頭部を掻《か》きながら、なんたることだ、日頃の重苦しさを、一挙に雲散霧消させたくて、何か悪事を、死ぬほど強烈なロマンチシズムを、と喘《あ》えぎつつ、あこがれ求めて旅に出た。山を見に来たのでは、あるまい。ばかばかしい。とんだロマンスだ。
 がやがや、うしろの青年少女の一団が、立ち上って下車の仕度をはじめ、富士見駅で降りてしまった。笠井さんは、少し、ほっとした。やはり、なんだか、気取っていたのである。笠井さんは、そんなに有名な作家では無いけれども、それでも、誰か見ている、どこかで見ている。そんな気がして群集の間にはいったときには、煙草《たばこ》の吸いかたからして、少し違うようである。とりわけ、多少でも小説に関心持っているらしい人たちが、笠井さんの傍にいるときなどは、誰も、笠井さんなんかに注意しているわけはないのに、それでも、まるで凝固して、首をねじ曲げるのさえ、やっとである。以前は、もっと、ひどかった。あまりの気取りに、窒息、眩暈《めまい》をさえ生じたという。むしろ気の毒な悪業《あくごう》である。もともと笠井さんは、たいへんおどおどした、気の弱い男なの
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