とであって、その暇々に、私たちは、何かおいしいものを食べなければいけないのである。
ためになる。
それが何だ。おいしいものを、所謂「ために」ならなくても、味わなければ、何処に私たちの生きている証拠があるのだろう。おいしいものは、味わなければいけない。味うべきである。しかし、いままでの所謂「老大家」の差し出す料理に、何一つ私は、おいしいと感じなかった。
ここで、いちいち、その「老大家」の名前を挙げるべきかとも思うけれども、私は、その者たちを、しんから軽蔑《けいべつ》しきっているので、名前を挙げようにも、名前を忘れていると言いたいくらいである。
みな、無学である。暴力である。弱さの美しさを、知らぬ。それだけでも既に、私には、おいしくない。
何がおいしくて、何がおいしくない、ということを知らぬ人種は悲惨である。私は、日本の(この日本という国号も、変えるべきだと思っているし、また、日の丸の旗も私は、すぐに変改すべきだと思っている。)この人たちは、ダメだと思う。
芸術を享楽する能力がないように思われる。むしろ、読者は、それとちがう。文化の指導者みたいな顔をしている人たちのほうが、何もわからぬ。読者の支持におされて、しぶしぶ、所謂不健康とかいう私(太宰)の作品を、まあ、どうやら力作だろう、くらいに言うだけである。
おいしさ。舌があれていると、味がわからなくて、ただ量、或いは、歯ごたえ、それだけが問題になるのだ。せっかく苦労して、悪い材料は捨て、本当においしいところだけ選んで、差し上げているのに、ペロリと一飲みにして、これは腹の足しにならぬ、もっとみになるものがないか、いわば食慾に於ける淫乱である。私には、つき合いきれない。
何も、知らないのである。わからないのである。優しさということさえ、わからないのである。つまり、私たちの先輩という者は、私たちが先輩をいたわり、かつ理解しようと一生懸命に努めているその半分いや四分の一でも、後輩の苦しさについて考えてみたことがあるだろうか、ということを私は抗議したいのである。
或る「老大家」は、私の作品をとぼけていていやだと言っているそうだが、その「老大家」の作品は、何だ。正直を誇っているのか。何を誇っているのか。その「老大家」は、たいへん男振りが自慢らしく、いつかその人の選集を開いてみたら、ものの見事に横顔のお写真、しかもい
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