ことになっているが、(しかし、座談会の速記録、或いは、インタヴィユは、そのご本人に覚えのないことが多いものである。いい加減なものであるから、それを取り上げるのはどうかと思うけれども、志賀という個人に対してでなく、そういう言葉に対して、少し言い返したいのである)作品の最後の一行に於て読者に背負い投げを食わせるのは、あまりいい味のものでもなかろう。所謂「落ち」を、ひた隠しに隠して、にゅっと出る、それを、並々ならぬ才能と見做《みな》す先輩はあわれむべき哉、芸術は試合でないのである。奉仕である。読むものをして傷つけまいとする奉仕である。けれども、傷つけられて喜ぶ変態者も多いようだからかなわぬ。あの座談会の速記録が志賀直哉という人の言葉そのままでないにしても、もしそれに似たようなことを言ったとしたなら、それはあの老人の自己破産である。いい気なものだね。うぬぼれ鏡というものが、おまえの家にもあるようだね。「落ち」を避けて、しかし、その暗示と興奮で書いて来たのはおまえじゃないか。
 なお、その老人に茶坊主の如く阿諛追従《あゆついしょう》して、まったく左様でゴゼエマス、大衆小説みたいですね、と言っている卑しく痩《や》せた俗物作家、これは論外。

       四

 或る雑誌の座談会の速記録を読んでいたら、志賀直哉というのが、妙に私の悪口を言っていたので、さすがにむっとなり、この雑誌の先月号の小論に、附記みたいにして、こちらも大いに口汚なく言い返してやったが、あれだけではまだ自分も言い足りないような気がしていた。いったい、あれは、何だってあんなにえばったものの言い方をしているのか。普通の小説というものが、将棋だとするならば、あいつの書くものなどは、詰将棋である。王手、王手で、そうして詰むにきまっている将棋である。旦那芸の典型である。勝つか負けるかのおののきなどは、微塵《みじん》もない。そうして、そののっぺら棒がご自慢らしいのだからおそれ入る。
 どだい、この作家などは、思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけで、そうして己れひとり得意でたまらず、文壇の片隅にいて、一部の物好きのひとから愛されるくらいが関の山であるのに、いつの間にやら、ひさしを借りて、図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えをつくって来たのだから失笑せざるを得ない。
 今月は、この男のことについて、手加減も
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