いつが言うのである。(フランソワ・ヴィヨンとは、こういうお方ではないように聞いていますが)何というひねこびた虚栄であろう。しゃれにも冗談にもなってやしない。嫌味にさえなっていない。かれら大学教授たちは、こういうところで、ひそかに自慰しているのであって、これは、所謂学者連に通有のあわれな自尊心の表情のように思われる。また、その馬鹿先生の曰《いわ》く、(作者は、この作品の蔭でイヒヒヒヒと笑っている)事ここに到っては、自分もペンを持つ手がふるえるくらい可笑《おか》しく馬鹿らしい思いがしてくる。何という空想力の貧弱。そのイヒヒヒヒと笑っているのは、その先生自身だろう。実にその笑い声はその先生によく似合う。
 あの作品の読者が、例えば五千人いたとしても、イヒヒヒヒなどという卑穢な言葉を感じたものはおそらく、その「高尚」な教授一人をのぞいては、まず無いだろうと私には考えられる。光栄なる者よ。汝は五千人中の一人である。少しは、恥かしく思え。
 元来、作者と評者と読者の関係は、例えば正三角形の各頂点の位置にあるものだと思われるが、(△の如き位置に、各々外を向いて坐っていたのでは話にもならないが、各々内側に向い合って腰を掛け、作者は語り、読者は聞き、評者は、或いは作者の話に相槌《あいづち》を打ち、或いは不審を訊《ただ》し、或いは読者に代って、そのストップを乞う。)この頃、馬鹿教授たちがいやにのこのこ出て来て、例えば、直線上に二点を置き、それが作者と読者だとするならば、教授は、その同一線上の、しかも二点の中間に割り込み、いきなり、イヒヒヒヒである。物語りさいちゅうの作者も、また読者も、実にとまどい困惑するばかりである。
 こんなことまでは、さすがに私も言いたくないが、私は作品を書きながら、死ぬる思いの苦しき努力の覚えはあっても、イヒヒヒヒの記憶だけは、いまだ一度も無い、いや、それは当然すぎるほど当然のことではないか。こう書きながらも、つくづくおまえの馬鹿さが嫌になり、ペンが重く顔がしかめ面《つら》になってくる。
 最初に掲げた聖書の言葉にもあったとおり、禍害《わざわい》なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言う、「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに与《くみ》せざりしものを」と。
 百年二百年或いは三百年前の、謂わばレッテルつきの文豪の仕事な
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