童貞を失い、あなたも処女を。
(数枝)(驚愕《きょうがく》して立ち上り)まあ、あなたは何という事をおっしゃるのです。まるでそれではごろつきです。何の純情なものですか。あなたのような人こそ、悪人というのです。帰って下さい。お帰りにならなければ、人を呼びます。
(清蔵)(すっかり悪党らしく落ちつき)静かにしなさい。(出刃庖丁をちょっと持ち上げて見せて、軽く畳の上に投げ出し)これが見えませんか。今夜は、私も命がけです。いつまでも、そうそうあなたにからかわれていたくありません。イエスですか、ノオですか。
(数枝) よして下さい、いやらしい。女が、そんな、子供の頃のささいな事で一生ひとから攻められなければならないのでしたら、女は、あんまり、みじめです。ああ、あたしはあなたを殺してやりたい。(清蔵のほうを向きながら二、三歩あとずさりして、突然、うしろ手で背後の襖《ふすま》をあける。襖の外は階段の上り口。そこに、あさが立っている。数枝、そこにあさが立っているのを先刻より承知の如く、やはり清蔵のほうを見ながら)お母さん! たのむわ。この男を、帰らせてよ。毛虫みたいな男だわ。あたしはもう、口をきくのもいや。殺してやりたい。
(清蔵)(あさの立っているのを見て驚き)やあ、お母さん、あなたはそこにいたのですか。(急にはにかみ、畳の上の出刃庖丁をそそくさと懐《ふところ》にしまいこみ)失礼しました。帰りましょう。(立ち上り、二重廻しを着る)
(あさ)(おどおど部屋にはいり、清蔵の傍に寄り、清蔵が二重廻しを着るのにちょっと手伝い、おだやかに)清蔵さん、早くお嫁をもらいなさい。数枝には、もう、……。
(数枝)(小声で鋭く)お母さん! (言うなと眼つきで制する)
(清蔵)(はっと気附いた様子で)そうですか。数枝さん、あなたもひどい女だ。(にやりと笑って)凄《すご》い腕だ。おそれいりましたよ。私が毛虫なら、あなたは蛇《へび》だ。淫乱《いんらん》だ。女郎だ。みんなに言ってやる。ようし、みんなに言ってやる。(身をひるがえして、背後の雨戸をあける。どっと雪が吹き込む)
(あさ)(低く、きっぱりと)清蔵さん、お待ちなさい。(清蔵に抱きつくようにして、清蔵のふところをさぐり、出刃庖丁を取り出し、逆手に持って清蔵の胸を刺さんとする)
(清蔵)(間一髪にその手をとらえ)何をなさる。気が狂ったか、糞婆《くそばばあ》め。(庖丁を取り上げ、あさを蹴倒《けたお》し、外にのがれ出る。どさんと屋根から下へ飛び降りる音が聞える)
(数枝)(あさに武者振りついて)お母さん! つらいわよう。(子供のように泣く)
(あさ)(数枝を抱きかかえ)聞いていました。立聞きして悪いと思ったけど、お前の身が案じられて、それで、……(泣く)
(数枝) 知っていたわよう。お母さんは、あの襖の蔭で泣いていらした。あたしには、すぐにわかった。だけどお母さん、あたしの事はもう、ほっといて。あたしはもう、だめなのよ。だめになるだけなのよ。一生、どうしたって、幸福が来ないのよ。お母さん、あたしを東京で待っているひとは、あたしよりも年がずっと下のひとだわ。
(あさ)(おどろく様子)まあ、お前は。(数枝をひしと抱きかかえ)仕合せになれない子だよ。
(数枝)(いよいよ泣き)仕様が無いわ。仕様が無いわ。あたしと睦子が生きて行くためには、そうしなければいけなかったのよ。あたしが、わるいんじゃないわよ。あたしが、わるいんじゃないわよ。
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雪が間断なく吹き込む。その辺の畳も、二人の髪、肩なども白くなって行く。
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[#地から3字上げ]――幕。
第三幕
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舞台は、伝兵衛宅の奥の間。正面は堂々たる床の間だが、屏風《びょうぶ》が立てられているので、なかば以上かくされている。屏風はひどく古い鼠色《ねずみいろ》になった銀屏風。しかし、破れてはいない。上手《かみて》は障子。その障子の外は、廊下の気持。廊下のガラス戸から朝日がさし込み、障子をあかるくしている。下手《しもて》は襖《ふすま》。
幕あくと、部屋の中央にあさの病床。あさは、障子のほうを頭にして仰向に寝ている。かなりの衰弱。眠っている。枕元《まくらもと》には薬瓶《くすりびん》、薬袋、吸呑《すいの》み、その他。病床の手前には桐《きり》の火鉢《ひばち》が二つ。両方の火鉢にそれぞれ鉄瓶がかけられ、湯気が立っている。数枝、障子に向った小机の前に坐って、何か手紙らしいものを書いている。
第二幕より、十日ほど経過。
数枝、万年筆を置いて、机に頬杖《ほおづえ》をつき障子をぼんやり眺め、やがて声を立てずに泣く。
間。
あさ、眠りながら苦しげに呻《うめ》く。呻きが、つづく。
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(数枝)(あさのほうを見て、机上の書きかけの手紙を畳んでふところにいれ、それから、立ってあさのほうへ行き、あさをゆり起し)お母さん、お母さん。
(あさ) ああ、(と眼ざめて深い溜息《ためいき》をつく)ああ、お前かい。
(数枝) どこか、お苦しい?
(あさ) いいえ、(溜息)何だかいやな、おそろしい夢を見て、……(語調をかえて)睦子は?
(数枝) けさ早く、おじいちゃんに連れられて弘前《ひろさき》へまいりました。
(あさ) 弘前へ? 何しに?
(数枝) あら、ご存じ無かったの? きのう来ていただいたお医者さんは、弘前の鳴海《なるみ》内科の院長さんよ。それでね、お父さんがきょう、鳴海先生のとこへお薬をもらいに行ったの。
(あさ) 睦子がいないと、淋《さび》しい。
(数枝) 静かでかえっていいじゃないの。でも、子供ってずいぶん現金なものねえ。おばあちゃんが御病気になったら、もうちっともおばあちゃんの傍には寄りつかず、こんどはやたらにおじいちゃんにばかり甘えて、へばりついているのだもの。
(あさ) そうじゃないよ。それはね、おじいちゃんが一生懸命に睦子のご機嫌《きげん》をとったから、そうなったのさ。おじいちゃんにして見れば、ここは何としても睦子を傍に引寄せていたいところだろうからね。
(数枝) あら、どうして? (火鉢に炭をついだり、鉄瓶に水をさしたり、あさの掛蒲団《かけぶとん》を直してやったり、いろいろしながら気軽い口調で話相手になってやっている)
(あさ) だって、あたしがいなくなった後でも、睦子がおじいちゃんになついて居れば、お前だって、東京へ帰りにくくなるだろうからねえ。
(数枝)(笑って)まあ、へんな事を言うわ。よしましょう、ばからしい。林檎《りんご》でもむきましょうか。お医者さんはね、何でも食べさえすれば、よくなるとおっしゃっていたわよ。
(あさ)(幽《かす》かに首を振り)食べたくない。なんにもいただきたくない。きのう来たお医者さんは、あたしの病気を、なんと言っていたの?
(数枝)(すこし躊躇《ちゅうちょ》して、それから、はっきりと)胆嚢炎《たんのうえん》、かも知れないって。この病気は、お母さんのように何を食べてもすぐ吐くのでからだが衰弱してしまって、それで危険な事があるけれども、でも、いまに食べものがおなかにおさまるようになったら、一週間くらいでよくなると言っていました。
(あさ)(薄笑いして)そうだといいがねえ。あたしは、もうだめなような気がするよ。その他にも何か病気があるんだろう? 手足がまるで動かない。
(数枝) そりゃお医者に見せたら、達者な人でも、いろんな事を言われるんだもの、それをいちいち気にしていたら、きりが無いわ。
(あさ) なんと言ったのだい。
(数枝) いいえ、何でも無いのよ。ただね、軽い脳溢血《のういっけつ》の気味があるようだとか、それから、脈がどうだとか、こうだとか、何だかいろいろ言っていたけど忘れちゃったわ。(おどけた口調で)要するにね、食べたいものを何でも、たくさん召上ったらなおるのよ。数枝という女博士の診断なら、そうだわ。
(あさ)(厳粛に)数枝、あたしはもう、なおりたくない。こうしてお前に看病してもらいながら早く死にたい。あたしには、それが一ばん仕合せなのです。
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茶の間の時計が、ゆっくり十時を打つのが聞える。
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(数枝)(あさの言う事に全く取り合わず、聞えぬ振りして)あら、もう十時よ。(立上り)葛湯《くずゆ》でもこしらえて来ましょう。本当に、何か召し上らないと。(言いながら上手の障子をあけて)おお、きょうは珍らしくいいお天気。
(あさ) 数枝、ここにいてくれ。何を食べても、すぐ吐きそうになって、かえって苦しむばかりだから。どこへも行かないで、あたしの傍にいてくれ。お前に、すこし言いたい事がある。
(数枝)(障子を静かにしめて、また病床の傍に坐り、あかるく)どうしたの? ね、お母さん。
(あさ) 数枝、お前はもう、東京へは帰らないだろうね。
(数枝)(あっさり)帰るつもりだわ。お父さんはあたしに、出て行けと言ったじゃないの。そうして、あの日からもう、あたしにはろくに口もききやしないんだもの。帰るより他は無いじゃないの。
(あさ) あたしがこんなに寝たきりになってもかい。
(数枝) お母さんの病気なんか、すぐなおるわよ。そりゃ、なおるまでは、やっぱりあたし、お父さんがどんなに出て行けって言ったって、この家に頑張《がんば》ってお母さんの看病をさせていただくつもりだけど。
(あさ) 何年でもかい。
(数枝) 何年でもって、(笑って)お母さん、すぐなおるわよ。
(あさ)(首を振り)だめ、だめ。あたしには、わかっています。数枝、あたしにもしもの事があったら、お前は、お父さんひとりをこの家に残して東京へ行くのですか。
(数枝) もう、いや。そんな話。(顔をそむけて泣く)もしも、そうなったら、もしも、そうなったら、数枝も死んでしまうから。
(あさ)(溜息をついて)あたしはお前を、世界で一ばん仕合せな子にしたかったのだけど、逆になってしまった。
(数枝) いいえ、あたしだけが不仕合せなんじゃないわ。いま日本で、ひとりでも、仕合せな人なんかあるかしら。あたしはね、お母さん、さっきこんな手紙を書いてみたのよ。(ふところから先刻書きかけの手紙を取り出し、小さくはしゃいで)ちょっと読んでみるわね。(小声で読む)拝啓。為替《かわせ》三百円たしかにいただきました。こちらへ来てから、お金の使い道がちっとも無くて、あなたからこれまで送っていただいたお金は、まだそっくりございます。あなたのほうこそ、いくらでもお金が要《い》るでございましょうに、もうこれからは、お金をこちらへ送って寄こしてはいけません。そうして、もしそちらでお金が急に要るような事があったら、電報でお知らせ下さいまし。こちらでは、本当になんにも要らないのですから、いくらでもすぐにお送り申します。それまで、おあずかり致して置きましょう。さて、相変らずお仕事におはげみの御様子、ことしの展覧会は、もうすぐはじまるとか、お正月がすぎたばかりなのに、ずいぶん早いのね。展覧会にお出しになる絵も、それでは、もうそろそろ出来上った頃と思います。新しい現実を描かなければならぬと、こないだのお手紙でおっしゃって居られましたが、何をおかきになったの? 上野駅前の浮浪者の群ですか? あたしならば、広島の焼跡をかくんだがなあ。そうでなければ、東京の私たちの頭上に降って来たあの美しい焔《ほのお》の雨。きっと、いい絵が出来るわよ。私のところでは、母が十日ほど前に、或《あ》るいやな事件のショックのために卒倒して、それからずっと寝込んで、あたしが看病してあげていますけど、久し振りであたしは、何だか張り合いを感じています。あたしはこの母を、あたしの命よりも愛しています。そうして母も、それと同じくらいあたしを愛しているのです。あたしの母は、立派な母です。そうして、それから、美しい母です。
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