まあ恥かしくもなく、のこのこ帰って来られたものだとおれは呆れてお前たちには口もききたくない気持だったが、しかし、お前もいまはおれの娘ではないんだし、島田という出征軍人の奥様なのだから、足蹴《あしげ》にして追い出すわけにもゆかず、まあ、赤の他人の罹災者をおあずかり申すつもりで、お前たちを黙ってこの家に置いてやる事にしたのだ。つけ上っては、いけない。おれには、お前たちの世話をしてやる義務もないし、お前だってこの家で我儘を言う権利などは持っていない筈《はず》だ。
(数枝)(うつむいて、けれども、はっきりと)島田は死んだようです。
(伝兵衛) そうかも知れない。しかし、まだ遺骨が来ない。お葬《とむら》いも、すんでいない。馬鹿な奴だ、お前は。いったい、いまの亭主だか何だか、それはどんな男なんだ。
(数枝) お母さんにお聞きになったらいいでしょう。なんでも知っていらっしゃるらしいから。
(伝兵衛)(無意識にこぶしを握り)まだそんな馬鹿な事を言うのか。あさは何も知ってはいない。ただお前が、こっそり誰かと文通しているらしいという事、たまにはお金も送られて来る様子だし、睦子が時々、東京のオジちゃんがどうのこうのと言うし、それは、あさでなくったって勘附くわけだ。
(数枝) でも、お父さんは知らなかったのでしょう?
(伝兵衛)(苦しそうに)夢にもそんな事を思う道理が無いじゃないか。(溜息《ためいき》をついて)お前はまあ、これからさき、どこまで堕落して行くつもりなのだ。
(数枝)(静かに)この家に置いていただけないなら、睦子を連れて東京へ帰るつもりでいます。春までこちらに置いていただき、そうしてその間に、鈴木がむこうで家を見つけるという事になっていたのですけど。
(伝兵衛) スズキというのか、その男は。
(数枝)(おとなしく)そうです。
(伝兵衛)(いかめしく)その男と一緒になってから何年になる。
(数枝)(無言)
(伝兵衛) 聞かないほうがよいのか? よし、たいていわかった。(興奮を抑えつつ静かに、しかし、音声が変っている)出て行け。いますぐ出て行け。どこへでもかまわない。出て行ってくれ。睦子を置いて、いますぐその男のところに行ってしまえ!
(数枝)(顔を挙げて)お父さん、あなたは、あたしが東京でどんな苦労をして来たか、知っていますか。
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玄関のあく音。
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(継母のあさの声) お利口だったねえ、お利口だったねえ。寒くっても、ちっとも泣かなかったんだものねえ。
(睦子の声) そうしてそれから、睦子なんか、うんと役に立ったね?
(あさの声) そうとも、そうとも。おばあちゃんの財布を持ってくれて落さなかったんだものねえ。ずいぶん役に立った。とっても役に立った。
(睦子の声) だからこんども、おつかいに連れて行くのね?
(あさの声) 連れて行くとも、連れて行くとも。さあ、あったしましょう。
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下手《しもて》の障子をあけて、あさ、睦子登場。睦子はすぐ数枝のほうに走って行き、数枝の膝《ひざ》の上に抱かれる。
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(数枝)(あさに向い、笑いながら)重かったでしょう?
(あさ)(買って来た魚のはいっている籠《かご》やら、角巻《かくまき》――津軽地方に於ける外出用の毛布――やらを上手《かみて》の台所のほうに運びながら)ああ、重かったとも何とも、石の地蔵様を背負って歩いてるみたいだったよ。(上手の障子をあけて、台所に降りて障子をしめ、あとは声のみ)このごろはどうして、なかなか悪智慧《わるぢえ》が附いてね、おんりして歩かないかって言えば、急に眠ったふりなんかしてさ、いやな子だよ。
(数枝)(睦子の手に握られてある一束《ひとたば》の線香花火に気附いて)おや、これは何? どうしたの?
(睦子) これは、玩具《おもちゃ》です。
(数枝) 玩具? (笑って)へんな玩具ねえ。おばあちゃんに買っていただいたの?
(睦子)(うなずく)
(あさ)(台所にて何かごとごと仕事をしていながら、やはり障子の蔭から声のみ)いまの子供は可哀《かわい》そうだよ。玩具らしいものを一つも売っていないんだものねえ。日の丸の小さい旗がほしいって睦子が言うんだけれどもね、ひやりとしたよ。そう言われて見ると、あの旗の玩具は、戦争中はどこの小間物屋にでも、必ずあったものなのに、このごろは影を消してしまったようだね。せめて子供にだけでも、あの旗を持たせて遊ばせてやりたいと思うんだけど、やっぱりだめなのかねえ。睦子にそこんところを何と説明してやったらいいか、おばあちゃんも困ってしまった。(ひくく笑う)線香花火だけは、たくさんお店にあってね。どういうわけかしら。どうもこのごろのお店には、季節はずれの妙な品物ばかり並んでいるよ。麦わら帽子だの、蠅《はえ》たたきだの、笑わせるじゃないか、あんなものでも買うひとがあるんだろうねえ。いまどき蠅たたきなんかを買ってどうするのだろう。
(数枝)(笑って)蠅たたきだって、羽子板のかわりくらいにはなるかも知れないわ。こんな線香花火なんかよりは、子供にはいい玩具かもわからない。(睦子の手から線香花火を取っていじりながら)冬の花火なんて、何だか気味《きび》が悪いわねえ。さっき睦子が持っているのをちらと見た時、なぜだか、ぎょっとしたわよ。
(あさ)(やわらかに)だって、他になんにも売ってなかったんだものねえ。いまの子供は、本当に可哀そうだよ。(語調をかえて)あたらしい鱈のようですけど、鱈ちりになさいますか?
(伝兵衛) 酒は、まだあるか。
(あさ)(やはり障子の蔭から)ええ、まだ少しございますでしょう。
(伝兵衛) それじゃ晩は、鱈ちりで一ぱいという事にしようか。
(数枝) あたしも、そうしよう。
(伝兵衛)(抑制を忘れ、ついに大声を発する)馬鹿野郎! どこまでお前は、ふざけやがって、(立ち上りかけ、また腰をおろして)真人間になれ!
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睦子、火のついたように泣き出し、数枝の懐《ふところ》にしがみつく。数枝は、冷然たり。
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(伝兵衛) お前ひとりのために、お前ひとりのために、この家が、お前ひとりのために、どれだけ、(何か呟《つぶや》きながら、泣き出す)
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数枝、睦子を抱いたまま静かに立って、奥の階段のほうへ行く。
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(伝兵衛)(猛然と立ち上って)待て!
(あさ)(台所から走り出て、伝兵衛を抑え)まあ、お父さん、何をなさる。
(伝兵衛) 殴らなくちゃいけねえ。正気にかえるまで殴らなくちゃいけねえ。
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数枝、振り向きもせず、泣き叫ぶ睦子を抱いて、階段をのぼりはじめる。和服の裾《すそ》から白いストッキングをはいているのが見える。
伝兵衛、あがく。あさ、必死にとどめる。
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[#地から3字上げ]――幕。
第二幕
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幕あくと、舞台はまっくら。ぱちと電燈がつく。二階の数枝の居間。数枝がいまその部屋の電燈をつけたのである。部屋には寝床が二つ。一つには、睦子が眠っている。数枝は寝巻き姿で立っていて、片手で、たったいま電燈のスイッチをひねったという形。片手を挙げてスイッチをつかんだまま、一点を凝視している。その一点とは、下手《しもて》の雨戸である。雨戸が静かにあく。雪が吹き込む。つづいて二重廻しを着た男が、うしろむきになってはいって来る。
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(数枝)(ひくく、けれども鋭く)どなた? どなたです。
(男)(雨戸をしめ、二重廻しを脱ぎ、はじめてこちら向きになって、その場にきちんと坐る。村の人、金谷清蔵である)私です。かんにんして下さい。(まじめに、ちょっと頭をさげる)
(数枝)(おどろき)まあ、清蔵さん。どうなさったのです。(素早く寝巻きの上に、羽織をひっかけ、羽織|紐《ひも》を結びながら、部屋の炉のところに行き、坐って)どろぼうかと思ったわ。いったい、どうしたの?
(清蔵) すみません。もういちど、私の気持を、ゆっくり聞いていただきたいと思って、お宅の前をずいぶん永い間うろついて、とうとう決心して、屋根へあがって、この二階のお部屋の雨戸に手をかけましたら、するするとあきましたので、それで、……。
(数枝)(苦笑し)とんだ鼠小僧ね。(火箸《ひばし》で埋火《うずみび》を掻《か》き集めながら)でも、田舎では、こんな事は珍らしくないんでしょう? 田舎の、普通の、恋愛形式になっているのね、きっと。夜這《よば》いとかいう事なんじゃないの?
(清蔵) とんでもない、そんな、私は、決して、そんな、失礼な。
(数枝)(笑って)いいえ、そうでなかったら、かえって失礼みたいなものだわ。屋根へあがって、二階のこの部屋へ、しかもこんな夜更《よふ》けに人を訪問するなんて、正気の沙汰じゃないわよ。
(清蔵)(いよいよ苦しげに)お願いです、からかわないで下さい。私が悪いのです。夜這いなどと言われるのは、実に心外ですが、しかし、致しかたがありません。私には、これより他に、手段が無かったのです。(顔を挙げて)数枝さん! もうこれ以上、私を苦しめるのは、やめて下さい。イエスですか、ノオですか。それを、それだけを、今夜はっきり答えて下さい。
(数枝)(顔をしかめて)あら、あなたは、お酒を飲んでいるのね。
(清蔵) 飲みました。(沈鬱に)もう、この数日間、私は酒ばかり飲んでいます。数枝さん、これも皆あなたが悪いのです。あなたさえ帰って来なかったら、ああ、つまらん、こんな事を言ったって仕様がない。数枝さん、あなたは覚えていますか、忘れたでしょうね、あなたが、女学校を卒業して東京の学校へいらっしゃる時、あの頃はちょうど雪溶《ゆきど》けの季節で路がひどく悪くて、私があなたの行李《こうり》を背負って、あなたのお母さんと三人、浪岡の駅まで歩いて行きました。路傍《みちばた》にはもう蕗《ふき》の薹《とう》などが芽を出していました。あなたは歩きながら、山辺《やまべ》も野辺《のべ》も春の霞《かすみ》、小川は囁《ささや》き、桃の莟《つぼみ》ゆるむ、という唱歌をうたって。
(数枝) ゆるむじゃないわよ。桃の莟うるむ。潤《うる》むだったわ。
(清蔵) そうでしたか。やっぱり、あの頃の事を覚えていらっしゃるのですね。それから、私たちは浪岡の駅に着いて、まだ時間がかなりあったので、私たちは駅の待合室のベンチに腰かけてお弁当をひらきました。その時、あなたのお弁当のおかずは卵焼きと金平牛蒡《きんぴらごぼう》で、私の持って来たお弁当のおかずは、筋子《すじこ》の粕漬《かすづけ》と、玉葱《たまねぎ》の煮たのでした。あなたは、私の粕漬の筋子を食べたいと言って、私に卵焼きと金平牛蒡をよこして、そうして私の筋子と玉葱の煮たのを、あなたが食べてしまいました。私もあなたの卵焼きと金平牛蒡を食べて、なんだかもうこれで、私たち二人の血がかよい合ったような気が致しました。いまここで別れても、決して別れきりになる事はないんだ、必ずまた私のところへ来て、きっと、夫婦、……ええ、そう思いましたのです。私はあの頃二十三、四になっていたでしょうか。この村では、とにかく中等学校を出ているのは、私ひとりで、あなたと一緒になれる資格のあるのは私だけだと、その前からぼんやり考えていた事でしたが、あのお弁当のおかずを取りかえて食べて、そうして、あなたのお母さんが、あなたに、清蔵さんのおかずは特別においしいようだね、と笑いながら言ったら、あなたは、だって清蔵
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