て寝込んでしまったが、あさはおれの寝ている枕元《まくらもと》に坐ったきりで、一生のたのみだから数枝を数枝の行きたいという学校に行かせてやってくれと頼んで泣き、おれも我《が》を折って承知した。お前は、当り前だというような顔で東京へ行き、それっきり帰って来ない。小説家だか先生だか何だか知らないが、あの島田とくっついて学校を勝手にやめて、その時からもうおれはお前を死んだものとして諦《あきら》めた。しかし、あさは一言《ひとこと》もお前の悪口を言わず、おれに隠して、こっそりあれのへそくりをお前に送り続けていたようだ。あさは、自分の着物を売ってまでもお前にお金を送っていたのだよ。睦子が生れてそれから間もなく、島田が出征して、それでもお前は、洋裁だか何だかやってひとりで暮せると言って、島田の親元のほうへも行かず、いや、行こうと思っても、島田もなかなかの親不孝者らしいから親元とうまく折合いがつかなくて、いまさら女房子供を自分の親元にあずかってもらうなんて事は出来なかったようで、それならば、おれたちのほうに泣き込んで来るのかと思っていたら、そうでもない。おれはもう、お前の顔を二度とふたたび見たくなかったので知らん振りをしていたが、あさは再三お前に、島田の留守中はこっちにいるようにと手紙を出した様子だった。それなのに、お前はひどく威張り返って、洋裁の仕事がいそがしくてとても田舎へなんか行かれぬなどという返事をよこして、どんな暮しをしていたものやら、そろそろ東京では食料が不自由になっているという噂《うわさ》を聞いてあさは、ほとんど毎日のように小包を作ってお前たちに食べ物を送ってやった。お前はそれを当り前みたいに平気で受取って、ろくに礼状も寄こさなかったようだが、しかし、あさはあれを送るのに、どんな苦労をしていたかお前には、わかるまい。一日でも早く着くようにと、必ず鉄道便で送って、そのためにあさは、いつも浪岡の駅まで歩いて行ったのだ。浪岡の駅まではここから一里ちかくもあるのだよ。冬の吹雪《ふぶき》の中も歩いて行った。六時の上《のぼ》り一番の汽車に間に合うようにと、暗いうちに起きて駅へ行く事もあった。あれはもう、朝起きてから夜眠るまで、お前たちの事ばかり考えて暮していたのだ。お前ほど仕合せな奴は無い。東京で罹災《りさい》したと言って、何の前触れも無く、にやにや笑ってこの家へやって来て、よくも
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