(ハンケチであさの涙を拭いてやって)あたしは、あたしなんか、どうなったっていいのよ。本当にいつもそう思っているのよ。(うつむいて)悪い事ばかりして来たのだもの。
(あさ) 数枝、(変った声で)女には皆、秘密がある。お前は、それを隠さなかっただけだよ。
(数枝)(不思議そうにあさの顔を覗《のぞ》き込み)お母さん、いやだわ、そんな真面目《まじめ》な顔して。(はにかむような微笑)
(あさ)(それに構わず)あれから何日になりますか。
(数枝) いつから?
(あさ) あの夜から。
(数枝) さあ、もう十日くらい経つかしら。よしましょう、あの晩の話は。
(あさ) 十日? そうかねえ。たった十日。あたしには、半年も前のような気がする。
(数枝) だってお母さんは、あの晩にあれから階段の下で卒倒して、それっきり三日も意識不明でいたんだもの、あの晩の事はもうずっと遠い夢のような気がするのは無理もないわ。夢だわよ。あたしは、あれも忘れる事にしよう。何もかも忘れる事にしよう。あたしはお百姓になって、そうしてあたしたちの桃源境を作るんだ。
(あさ) 清蔵さんは、その後どうしているか、何か聞かなかったかい。
(数枝) 知らないわ、あんなひとの事。もうあたしは忘れてしまうのだから、いいのよ。お酒をよして、このごろ人が変ったみたいに働くようになったとか、きのうあのひとの妹さんが来て言ってたけど、でも、あてになりやしないわ。
(あさ) 早く、お嫁をもらえばいいのにね。
(数枝) 何かいまそんな話もあるんですって。妹さんが言ってたわ。こんどの縁談は、どうした事か、兄さんがとても乗気だって。あたしには、わかるわ。
(あさ) 何が、わかるの?
(数枝) 何がって、清蔵さんの気持が。
(あさ) どうして?
(数枝) どうしてって、だって、お母さんにあの晩あんなに迄《まで》されて、それでも改心しないなら、あのひとは馬鹿か悪魔だわ。
(あさ) その馬鹿か悪魔は、あたしだよ。あたしなのだよ。あたしは、あの晩、あの人を本当に殺そうとしたのだ。
(数枝) もういや、よしましょう、お母さん。あたしのために、みんなあたしのために、お母さん、ごめんなさいね、これからあたしは、(泣き出して)親孝行して、御恩をかえすのだから、もうなんにも言わないで。日本にはもう世界に誇るものがなんにも無くなったけれど、でも、あたしのお母さん
前へ 次へ
全25ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング