! もうこれ以上、私を苦しめるのは、やめて下さい。イエスですか、ノオですか。それを、それだけを、今夜はっきり答えて下さい。
(数枝)(顔をしかめて)あら、あなたは、お酒を飲んでいるのね。
(清蔵) 飲みました。(沈鬱に)もう、この数日間、私は酒ばかり飲んでいます。数枝さん、これも皆あなたが悪いのです。あなたさえ帰って来なかったら、ああ、つまらん、こんな事を言ったって仕様がない。数枝さん、あなたは覚えていますか、忘れたでしょうね、あなたが、女学校を卒業して東京の学校へいらっしゃる時、あの頃はちょうど雪溶《ゆきど》けの季節で路がひどく悪くて、私があなたの行李《こうり》を背負って、あなたのお母さんと三人、浪岡の駅まで歩いて行きました。路傍《みちばた》にはもう蕗《ふき》の薹《とう》などが芽を出していました。あなたは歩きながら、山辺《やまべ》も野辺《のべ》も春の霞《かすみ》、小川は囁《ささや》き、桃の莟《つぼみ》ゆるむ、という唱歌をうたって。
(数枝) ゆるむじゃないわよ。桃の莟うるむ。潤《うる》むだったわ。
(清蔵) そうでしたか。やっぱり、あの頃の事を覚えていらっしゃるのですね。それから、私たちは浪岡の駅に着いて、まだ時間がかなりあったので、私たちは駅の待合室のベンチに腰かけてお弁当をひらきました。その時、あなたのお弁当のおかずは卵焼きと金平牛蒡《きんぴらごぼう》で、私の持って来たお弁当のおかずは、筋子《すじこ》の粕漬《かすづけ》と、玉葱《たまねぎ》の煮たのでした。あなたは、私の粕漬の筋子を食べたいと言って、私に卵焼きと金平牛蒡をよこして、そうして私の筋子と玉葱の煮たのを、あなたが食べてしまいました。私もあなたの卵焼きと金平牛蒡を食べて、なんだかもうこれで、私たち二人の血がかよい合ったような気が致しました。いまここで別れても、決して別れきりになる事はないんだ、必ずまた私のところへ来て、きっと、夫婦、……ええ、そう思いましたのです。私はあの頃二十三、四になっていたでしょうか。この村では、とにかく中等学校を出ているのは、私ひとりで、あなたと一緒になれる資格のあるのは私だけだと、その前からぼんやり考えていた事でしたが、あのお弁当のおかずを取りかえて食べて、そうして、あなたのお母さんが、あなたに、清蔵さんのおかずは特別においしいようだね、と笑いながら言ったら、あなたは、だって清蔵
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