だ。賭《か》けてもいい、この先生の、外套《がいとう》の襟《えり》の蔭の頬が、ゆるんだに違いない。
青年は図に乗り、
「近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです。僕は今夜、久し振りにモオツアルトを聞き、音楽とは、こんなものだとつくづく、……」
「僕は、ここから乗るがね。」
有楽町駅である。
「ああ、そうですか、失礼しました。今夜は、先生とお話が出来て、うれしかったです。」
ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、青年は、軽くお辞儀をして、先生と別れ、くるりと廻れ右をして銀座のほうに向う。
ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。モオツアルトを聞けば、モオツアルトさ。どっちだっていいじゃないか。あの先生、口髭《くちひげ》をはやしていやがるけど、あの口髭の趣味は難解だ。うん、どだいあの野郎には、趣味が無いのかも知れん。うん、そうだ、評論家というものには、趣味が無い、したがって嫌悪《けんお》も無い。僕も、そうかも知れん。なさけなし。しかし、口髭……。口髭を生《は》やすと歯が丈夫になるそうだが、誰かに食らいつくため、まさか。宮さまがあったな。洋服に下駄《げた》ばきで、そうしてお髭が見事だった。お可哀そうに。実に、おん心理を解するに苦しんだな。髭がその人の生活に対決を迫っている感じ、とでも言おうか。寝顔が、すごいだろう。僕も、生やして見ようかしら。すると何かまた、わかる事があるかも知れない。マルクスの口髭は、ありゃ何だ。いったいあれは、どういう構造になっているのかな。トウモロコシを鼻の下にさしはさんでいる感じだ。不可解。デカルトの口髭は、牛のよだれのようで、あれがすなわち懐疑思想……。おや? あれは、誰だったかな? 田辺さんだ、間違い無し。四十歳、女もしかし、四十になると、……いつもお小遣《こづか》い銭《せん》を持っているから、たのもしい。どだい彼女は、小造りで若く見えるから、たすかる。
「田辺さん。」
うしろから肩を叩《たた》く。げえっ! 緑のベレ帽。似合わない。よせばいいのに。イデオロギストは、趣味を峻拒《しゅんきょ》すか。でも、としを考えなさい、としを。
「どなたでしたかしら?」
近眼かい? 溜息《ため
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