》小説、あるいは諷刺《ふうし》小説のつもりだったら、また違った面白味もあるのだが、当の作者は異様に気張って、深刻のつもりでいるのだから、読むほうでは、すっかりまごついてしまうのである。どうもあれは、趣向としても、わるい趣向だ。歴史の大人物と作者との差を千里万里も引き離さなければいけないのではなかろうか、と私はかねがね思っていたところに、兄の叱咤だ。千里万里もまだ足りなかった。白虎とてんとう虫。いや、竜とぼうふら。くらべものにも何もなりやしないのだ。こんど徳川家康と一つ取っ組んでみようと思う、なんて大それた事を言っていた大衆作家もあったようだが、何を言っているのだ、どだい取組みにも何もなりやしない、身のほどを知れ、身のほどを、死ぬまで駄目さ、きまっているんだ、よく覚えて置け、と兄の口真似をして、ちっとも実体の無い大衆作家なんかを持出してそいつを叱りつけて、ひそかに溜飲《りゅういん》をさげているんだから私という三十五歳の男は、いよいよ日本一の大馬鹿ときまった。
(前略)あのお方の御環境から推測して、厭世《えんせい》だの自暴自棄だの或《ある》いは深い諦観《ていかん》だのとしたり顔して囁《ささや》いていたひともありましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆったりしていて、のんきそうに見えました。大声挙げてお笑いになる事もございました。その環境から推して、さぞお苦しいだろうと同情しても、その御当人は案外あかるい気持で生きているのを見て驚く事は此《こ》の世にままある例だと思います。だいいちあのお方の御日常だって、私たちがお傍《そば》から見て決してそんな暗い、うっとうしいものではございませんでした。私が御所へあがったのは私の十二歳のお正月で、問註所《もんちゅうじょ》の入道さまの名越《なごえ》のお家が焼けたのは正月の十六日、私はその三日あとに父に連れられ御所へあがって将軍家のお傍の御用を勤めるようになったのですが、あの時の火事で入道さまが将軍家よりおあずかりの貴《とうと》い御文籍も何もかもすっかり灰にしてしまったとかで、御所へ参りましても、まるでもう呆《ほう》けたようになって、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその様を見て、笑いを制する事が出来ず、ついクスクスと笑ってしまって、はっと気を取り直して御奥の将軍家のお顔を伺い見ましたら、あのお方も、私のほうをちらと御らんになってニッコリお笑いになりました。たいせつの御文籍をたくさん焼かれても、なんのくったくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎《ごしゅうたん》をむしろ興がっておいでのその御様子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思いました。どうしたって私たちとは天地の違いがございます。全然、別種のお生れつきなのです。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方の事をあれこれ、推し測ってみたりするのは、とんでもない間違いのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんという浅はかなひとりよがりの考え方か、本当に腹が立ちます。それは、あのお方が十七歳になられたばかりの頃の事だったのですが、おからだも充分に大きく、少し、伏目になってゆったりとお坐りになって居られるお姿は、御所のどんな御老人よりも分別ありげに、おとなびて、たのもしく見えました。
老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉《かな》
その頃もう、こんな和歌さえおつくりになって居られたくらいで、お生れつきとは言え、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に術《すべ》はありませんでした。(後略)
あまり抜書きすると、出版元から叱られるかも知れない。この作品は三百枚くらいで完成する筈であるが、雑誌に分載するような事はせず、いきなり単行本として或る出版社から発売される事になっているので、すでに少からぬ金額の前借もしてしまっているのであるから、この原稿は、もはや私のものではないのだ。けれども、三百枚の中から五、六枚くらい抜書きしても、そんなに重い罪にはなるまいと考えられる。他の雑誌に分載されるのだったら、こんな抜書きは許すべからざる犯罪にきまっているが、三百枚いちどに単行本として出版するんだから、まあ、五、六枚のところは、笑許、なんて言葉はない、御寛恕《ごかんじょ》を乞《こ》う次第だ。どうせ映画の予告篇、結果に於いては、宣伝みたいな事になってしまうのだから、出版元も大目に見てくれるにきまっていると思われる、などとれいの小心翼々、おっかなびっくりのあさましい自己弁解をやらかして、さて、とまた鉄仮面をかぶり、ただいまの抜書きは二枚半、ついでにもう二枚ばかり抜書きさせていただく。
(前略)私は御奉公にあがったばかりの、しかもわずか十二歳の子供でございましたので、ただもうおそろしく(中略)その時の事をただいま少し申し上げましょう。二月のはじめに御発熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御|危篤《きとく》と拝せられましたが、その頃が峠《とうげ》で、それからは謂《い》わば薄紙をはがすようにだんだんと御悩も軽くなってまいりました。忘れもしませぬ、二十三日の午剋《うまのこく》、尼御台《あまみだい》さまは御台所さまをお連れになって御寝所へお見舞いにおいでになりました。私もその時、御寝所の片隅に小さく控えて居りましたが、尼御台さまは将軍家のお枕元にずっといざり寄られて、つくづくとあのお方のお顔を見つめて、もとのお顔を、もいちど見たいの、とまるでお天気の事でも言うような平然たる御口調ではっきりおっしゃいましたので、私は子供心にも、ドキンとしていたたまらない気持が致しました。御台所さまはそれを聞いて、え堪《た》えず、泣き伏しておしまいになりましたが、尼御台さまは、なおも将軍家のお顔から眼をそらさず静かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでした。あのお方のお顔には疱瘡の跡が残って、ひどい面変りがしていたのです。お傍の人たちは、みんなその事には気附かぬ振りをしていたのですが、尼御台さまは、そのとき平気で言い出しましたので、私たちは色を失い生きた心地も無かったのでございます。その時あのお方は、幽《かす》かにうなずき、それから白いお歯をちらと覗《のぞ》かせて笑いながら申されました。
スグ馴《な》レルモノデス
このお言葉の有難さ。やっぱりあのお方は、まるで、ずば抜けて違って居られる。それから三十年、私もすでに四十の声を聞くようになりましたが、どうしてどうして、こんな澄んだ御心境は、三十になっても四十になっても、いやいやこれからさき何十年かかったって到底、得られそうもありませぬ。(後略)
べつに、いいところだから抜書きしたというわけではない。だいたいこんな調子で書いているのだという事を、具体的にお知らせしたかったのである。実朝の近習《きんじゅ》が、実朝の死と共に出家して山奥に隠れ住んでいるのを訪ねて行って、いろいろと実朝に就いての思い出話を聞くという趣向だ。史実はおもに吾妻鏡に拠《よ》った。でたらめばかり書いているんじゃないかと思われてもいけないから、吾妻鏡の本文を少し抜萃《ばっすい》しては作品の要所々々に挿入して置いた。物語は必ずしも吾妻鏡の本文のとおりではない。そんなとき両者を比較して多少の興を覚えるように案配《あんばい》したわけである、などと、これではまるで大道の薬売りの口上にまさる露骨な広告だ。もう、やめる。さすがの鉄仮面も熱くなって来た。他の話をしよう。なにせ、Dって野郎もたいしたものだよ。二三年前に逢った時には、足利時代と桃山時代と、どっちがさきか知らない様子で、なんだか、ひどく狼狽《ろうばい》して居ったが、実朝を、ねえ、これだから世の中はこわいと言うんだ、何がなんだか、わかったもんじゃない、実朝を書きたいというのは余の幼少の頃からのひそかな念願であった、と言ったってね、すさまじいじゃないか、いよう! だ、気が狂ってるんじゃないか、あいつが酒をやめて勉強しているなんて嘘だよ、「源の実朝さま」という子供の絵本を一冊買って来て、炬燵《こたつ》にもぐり込んで配給の焼酎《しょうちゅう》でも飲みながら、絵本の説明文に仔細《しさい》らしく赤鉛筆でしるしをつけたりなんかして、ああ、そのさまが見えるようだ。
このごろ私は、誰にでも底知れぬほど軽蔑されて至当だと思っている。芸術家というものは、それくらいで結構なんだ。人間としての偉さなんて、私には微塵《みじん》も無い。偉い人間は、咄嗟《とっさ》にきっぱりと意志表示が出来て、決して負けず、しくじらぬものらしい。私はいつでも口ごもり、ひどく誤解されて、たいてい負けて、そうして深夜ひとり寝床の中で、ああ、あの時にはこう言いかえしてやればよかった、しまった、あの時、颯《さ》っと帰って来ればよかった、しまった、と後悔ほぞを噛《か》む思いに眠れず転輾《てんてん》している有様なのだから、偉いどころか、最劣敗者とでもいうようなところだ。先日も、ある年少の友人に向って言った事だが、君は君自身に、どこかいいところがあると思っているらしいが、後代にまで名が残っている人たちは、もう君くらいの年齢の頃には万巻の書を読んでいるんだ、その書だって猿飛佐助だの鼠小僧だの、または探偵小説、恋愛小説、そんなもんじゃない、その時代に於いていかなる学者も未だ読んでいないような書を万巻読んでいるんだ、その点だけで君はすでに失格だ、それから腕力だって、例外なしにずば抜けて強かった、しかも決してそれを誇示しない、君は剣道二段だそうで、酒を飲むたびに僕に腕角力《うでずもう》をいどむ癖があるけれども、あれは実にみっともない、あんな偉人なんて、あるものじゃない、名人達人というものは、たいてい非力の相をしているものだ、そうしてどこやら落ちついている、この点に於いても君は完全に失格だ、それから君は中学時代に不自然な行為をした事があるだろう、すでに失格、偉いやつはその生涯に於いて一度もそんな行為はしない、男子として、死以上の恥辱なのだ、それからまた、偉いやつは、やたらに淋しがったり泣いたりなんかしない、過剰な感傷がないのだ、平気で孤独に堪えている、君のようにお父さんからちょっと叱られたくらいでその孤独の苦しさを語り合いたいなんて、友人を訪問するような事はしない、女だって君よりは孤独に堪える力を持っている、女、三界に家なし、というじゃないか、自分がその家に生れても、いつかはお嫁に行かなければならぬのだから、父母の家も謂《い》わば寓居《ぐうきょ》だ、お嫁に行ったって、家風に合わなければ離縁される事もあるのだし、離縁されたらこいつは悲惨だ、どこにも行くところがない、離縁されなくたって、夫が死んだら、どうなるか、子供があったら、まあその子供の家にお世話になるという事になるんだろうが、これだって自分の家ではない、寓居だ、そのように三界に家なしと言われる程の女が、別にその孤独を嘆ずるわけでもなし、あくせくと針仕事やお洗濯をして、夜になると、その他人の家で、すやすやと安眠しているじゃないか、たいした度胸だ、君は女にも劣るね、人類の最下等のものだ、君だって僕だって全く同等だが、とにかく自分が、偉いやつというものと、どれほど違うかという事を、いまのこの時代に、はっきり知って置かないといけないのではなかろうかと、なぜだか、そんな気がするのだがね、などとその自称天才詩人に笑いながら忠告を試みた事もある。このごろ私は、自分の駄目加減を事ある毎に知らされて、ただもう興覚めて生真面目《きまじめ》になるばかりだ。黙って虫のように勉強したいなどというてれくさい殊勝げの心も、すべてそこのところから発しているのだ。先日も、在郷軍人の分会査閲に、戦闘帽をかぶり、巻脚絆《まききゃはん》をつけて参加したが、私の動作は五百人の中でひとり目立ってぶざまらしく、折敷さえ満足に出来ず、分会長には叱られ、面白くなくなって来て、おれはこんな場所ではこのように、へまであるが、出るところへ出れば相当の男なんだ、という事を示そうとして、ぎゅっと
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