うごくすすき。

蜜柑《みかん》畑。
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 くるしい時には、かならず実朝を思い出す様子であった。いのちあらば、あの実朝を書いてみたいと思っていた。私は生きのびて、ことし三十五になった。そろそろいい時分だ、なんて書くと甚《はなは》だ気障《きざ》な空漠たる美辞麗句みたいになってつまらないが、実朝を書きたいというのは、たしかに私の少年の頃からの念願であったようで、その日頃の願いが、いまどうやら叶《かな》いそうになって来たのだから、私もなかなか仕合せな男だ。天神様や観音様にお礼を申し上げたいところだが、あのお光《みつ》の場合は、ぬかよろこびであったのだし、あんな事もあるのだから、やっと百五十一枚を書き上げたくらいで、気もいそいその馬鹿騒ぎは慎しまなければならぬ。大事なのは、これからだ。この短篇小説を書き上げると、またすぐ重い鞄《かばん》をさげて旅行に出て、あの仕事をつづけるのだ。なんて、やっぱり、小学生が遠足に出かける時みたいな、はしゃいだ調子の文章になってしまったが、仕事が楽しいという時期は一生に、そう度々《たびたび》あるわけでもないらしいから、こんな浮わついた文章も、記念として、消さずにそのまま残して置こう。
 右大臣実朝。
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承元《じょうげん》二年|戊辰《つちのえたつ》。二月小。三日、癸卯《みずのとう》、晴、鶴岳宮《つるがおかぐう》の御神楽《みかぐら》例の如し、将軍家御|疱瘡《ほうそう》に依《よ》りて御出《ぎょしゅつ》無し、前大膳大夫《さきのだいぜんのだいぶ》広元朝臣《ひろもとあそん》御使として神拝す、又|御台所《みだいどころ》御参宮。十日、庚戌《かのえいぬ》、将軍家御疱瘡、頗《すこぶ》る心神を悩ましめ給ふ、之《これ》に依つて近国の御家人等《ごけにんら》群参《ぐんさん》す。廿九日、己巳《つちのとみ》、雨降る、将軍家御|平癒《へいゆ》の間、御|沐浴《もくよく》有り。(吾妻鏡《あずまかがみ》。以下同断)
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 おたずねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避けてありのまま、あなたにお知らせ申し上げます。
 というのが開巻第一頁だ。どうも、自分の文章を自分で引用するというのは、グロテスクなもので、また、その自分の文章たるや、こうして書き写してみると、いかにも青臭く衒気《げんき》満々のもののような気がして来て、全く、たまらないのであるが、そこがれいの鉄面皮だ、洒唖々々然《しゃあしゃあぜん》と書きすすめる。ひょっとしたら、この鉄面皮、ほんものかも知れない。もともと芸術家ってのは厚顔無恥の気障《きざ》ったらしいもので、漱石がいいとしをして口髭《くちひげ》をひねりながら、我輩は猫である、名前はまだ無い、なんて真顔で書いているのだから、他は推して知るべしだ。所詮《しょせん》、まともではない。賢者は、この道を避けて通る。ついでながら徒然草《つれづれぐさ》に、馬鹿の真似をする奴は馬鹿である。気違いの真似だと言って電柱によじのぼったりする奴は気違いである、聖人賢者の真似をして、したり顔に腕組みなんかしている奴は、やっぱり本当の聖人賢者である、なんて、いやな事が書かれてあったが、浮気の真似をする奴は、やっぱり浮気、奇妙に学者ぶる奴は、やっぱり本当の学者、酒乱の真似をする奴は、まさしく本物の酒乱、芸術家ぶる奴は、本当の芸術家、大石良雄の酔狂振りも、あれは本物、また、笑いながら厳粛の事を語れと教える哲人ニイチェ氏も、笑いながら、とはなんだ、そんな冗談めかしたりして物を言う奴は、やっぱり、ふざけた奴なんだ、という事になって、鉄面皮を装う愚作者は、なんの事はない、そのとおり鉄面皮の愚作者なのだ。まことに、身も蓋《ふた》も無い興覚《きょうざ》めた話で、まるで赤はだかにされたような気持であるが、けれども、これは、あなどるべからざる説である。この説に就いては、なお長年月をかけて考えてみたいと思っているが、小説家というものは恥知らずの愚者だという事だけは、考えるまでもなく、まず決定的なものらしい。昨年の暮に故郷の老母が死んだので、私は十年振りに帰郷して、その時、故郷の長兄に、死ぬまで駄目だと思え、と大声|叱咤《しった》されて、一つ、ものを覚えた次第であるが、
「兄さん、」と私はいやになれなれしく、「僕はいまは、まるで、てんで駄目だけれども、でも、もう五年、いや十年かな、十年くらい経《た》ったら何か一つ兄さんに、うむと首肯《しゅこう》させるくらいのものが書けるような気がするんだけど。」
 兄は眼を丸くして、
「お前は、よその人にもそんなばかな事を言っているのか。よしてくれよ。いい恥さらしだ。一生お前は駄目なんだ。どうしたって駄目なんだ。五年? 十年? 俺にうむと言
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