た。凍つた空氣へたのしげに口笛を吹きこんだ。誰ひとりゐない山。どんなことでもできるのだ。眞野にそんなわるい懸念を持たせたくなかつたのである。
 窪地へ降りた。ここにも枯れた茅がしげつてゐた。眞野は立ちどまつた。葉藏も五六歩はなれて立ちどまつた。すぐわきに白いテントの小屋があるのだ。
 眞野はその小屋を指さして言つた。
「これ、日光浴場。輕症の患者さんたちが、はだかでここへ集るのよ。ええ、いまでも。」
 テントにも霜がひかつてゐた。
「登らう。」
 なぜとは知らず氣がせくのだ。
 眞野は、また駈け出した。葉藏もつづいた。落葉松の細い並木路へさしかかつた。ふたりはつかれて、ぶらぶらと歩きはじめた。
 葉藏は肩であらく息をしながら、大聲で話かけた。
「君、お正月はここでするのか。」
 振りむきもせず、やはり大聲で答へてよこした。
「いいえ。東京へ歸らうと思ひます。」
「ぢや、僕のとこへ遊びに來たまへ。飛騨も小菅も毎日のやうに僕のとこへ來てゐるのだ。まさか牢屋でお正月を送るやうなこともあるまい。きつとうまく行くだらうと思ふよ。」
 まだ見ぬ檢事のすがすがしい笑ひ顏をさへ、胸に畫いてゐたのである。
 ここで結べたら! 古い大家はこのやうなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、葉藏も僕も、おそらくは諸君も、このやうなごまかしの慰めに、もはや厭きてゐる。お正月も牢屋も檢事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。僕たちはいつたい、檢事のことなどをはじめから氣にかけてゐたのだらうか。僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があらう。いささかの期待をそれにのみつないでゐる。
 やうやう頂上にたどりつく。頂上は簡單に地ならしされ、十坪ほどの赭土がむきだされてゐた。まんなかに丸太のひくいあづまやがあり、庭石のやうなものまで、あちこちに据ゑられてゐた。すべて霜をかぶつてゐる。
「駄目。富士が見えないわ。」
 眞野は鼻さきをまつかにして叫んだ。
「この邊に、くつきり見えますのよ。」
 東の曇つた空を指さした。朝日はまだ出てゐないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたつては澱み、澱んではまたゆるゆると流れてゐた。
「いや、いいよ。」
 そよ風が頬を切る。
 葉藏は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの斷崖になつてゐて、江の島が眞下に小さく見えた。ふかい朝霧の奧底に、海水がゆらゆらうごいてゐた。
 そして、否、それだけのことである。



底本:「太宰治全集2」筑摩書房
   1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:赤木孝之
校正:小林繁雄
1999年7月13日公開
2004年3月6日修正
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