ぶせるやうにして言つた。「畫は、まだるつこくていかんな。彫刻だつてさうだよ。」
飛騨は長い髮を掻きあげて、たやすく同意した。「そんな氣持ちも判るな。」
「できれば、詩を書きたいのだ。詩は正直だからな。」
「うん。詩も、いいよ。」
「しかし、やつぱりつまらないかな。」なんでもかでもつまらなくしてやらうと思つた。「僕にいちばんむくのはパトロンになることかも知れない。金をまうけて、飛騨みたいなよい藝術家をたくさん集めて、可愛がつてやるのだ。それは、どうだらう。藝術なんて、恥かしくなつた。」やはり頬杖ついて海を眺めながら、さう言ひ終へて、おのれの言葉の反應をしづかに待つた。
「わるくないよ。それも立派な生活だと思ふな。そんなひともなくちやいけないね。じつさい。」言ひながら飛騨は、よろめいてゐた。なにひとつ反駁できぬおのれが、さすがに幇間じみてゐるやうに思はれて、いやであつた。彼の所謂、藝術家としての誇りは、やうやくここまで彼を高めたわけかも知れない。飛騨はひそかに身構へた。このつぎの言葉を!
「警察のはうは、どうだつたい。」
小菅がふいと言ひ出した。あたらずさはらずの答を期待してゐたのである。
飛騨の動搖はその方へはけぐちを見つけた。
「起訴さ。自殺幇助罪といふ奴だ。」言つてから悔いた。ひどすぎたと思つた。「だが、けつきよく、起訴猶豫になるだらうよ。」
小菅は、それまでソフアに寢そべつてゐたのをむつくり起きあがつて、手をぴしやつと拍つた。「やつかいなことになつたぞ。」茶化してしまはうと思つたのである。しかし駄目であつた。
葉藏はからだを大きく捻つて、仰向になつた。
ひと一人を殺したあとらしくもなく、彼等の態度があまりにのんきすぎると忿懣を感じてゐたらしい諸君は、ここにいたつてはじめて快哉を叫ぶだらう。ざまを見ろと。しかし、それは酷である。なんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにゐて、傷つき易い道化の華を風にもあてずつくつてゐるこのもの悲しさを君が判つて呉れたならば!
飛騨はおのれの一言の效果におろおろして、葉藏の足を蒲團のうへから輕く叩いた。
「だいぢやうぶだよ。だいぢやうぶだよ。」
小菅は、またソフアに寢ころんだ。
「自殺幇助罪か。」なほも、つとめてはしやぐのである。「そんな法律もあつたかなあ。」
葉藏は足をひつこめながら言つた。
「あるさ。懲役ものだ。君は法科の學生のくせに。」
飛騨は、かなしく微笑んだ。
「だいぢやうぶだよ。兄さんが、うまくやつてゐるよ。兄さんは、あれで、有難いところがあるな。とても熱心だよ。」
「やりてだ。」小菅はおごそかに眼をつぶつた。「心配しなくてよいかも知れんな。なかなかの策士だから。」
「馬鹿。」飛騨は噴きだした。
ベツドから降りて外套を脱ぎ、ドアのわきの釘へそれを掛けた。
「よい話を聞いたよ。」ドアちかくに置かれてある瀬戸の丸火鉢にまたがつて言つた。「女のひとのつれあひがねえ、」すこし躊躇してから、眼を伏せて語りつづけた。「そのひとが、けふ警察へ來たんだ。兄さんとふたりで話をしたんだけれどねえ、あとで兄さんからそのときの話を聞いて、ちよつと打たれたよ。金は一文も要らない、ただその男のひとに逢ひたい、と言ふんださうだ。兄さんは、それを斷つた。病人はまだ昂奮してゐるから、と言つて斷つた。するとそのひとは、情ない顏をして、それでは弟さんによろしく言つて呉れ、私たちのことは氣にかけず、からだを大事にして、――」口を噤んだ。
おのれの言葉に胸がわくわくして來たのである。そのつれあひのひとが、いかにも失業者らしくまづしい身なりをしてゐたと、輕侮のうす笑ひをさへまざまざ口角に浮べつつ話して聞かせた葉藏の兄へのこらへにこらへた鬱憤から、ことさらに誇張をまじへて美しく語つたのであつた。
「逢はせればよいのだ。要らないおせつかいをしやがる。」葉藏は、右の掌を見つめてゐた。
飛騨は大きいからだをひとつゆすつた。
「でも、――逢はないはうがいいんだ。やつぱり、このまま他人になつてしまつたはうがいいんだ。もう東京へ歸つたよ。兄さんが停車場まで送つて行つて來たのだ。兄さんは二百圓の香奠をやつたさうだよ。これからはなんの關係もない、といふ證文みたいなものも、そのひとに書いてもらつたんだ。」
「やりてだなあ。」小菅は薄い下唇を前へ突きだした。「たつた二百圓か。たいしたものだよ。」
飛騨は、炭火のほてりでてらてら油びかりしだした丸い顏を、けはしくしかめた。彼等は、おのれの陶醉に水をさされることを極端に恐れる。それゆゑ、相手の陶醉をも認めてやる。努めてそれへ調子を合せてやる。それは彼等のあひだの默契である。小菅はいまそれを破つてゐる。小菅には、飛騨がそれほど感激してゐるとは思へなかつたのだ。そのつれあひのひとの弱さが齒がゆかつたし、それへつけこむ葉藏の兄も兄だ、と相變らずの世間の話として聞いてゐたのである。
飛騨はぶらぶら歩きだし、葉藏の枕元のはうへやつて來た。硝子戸に鼻先をくつつけるやうにして、曇天のしたの海を眺めた。
「そのひとがえらいのさ。兄さんがやりてだからぢやないよ。そんなことはないと思ふなあ。えらいんだよ。人間のあきらめの心が生んだ美しさだ。けさ火葬したのだが、骨壺を抱いてひとりで歸つたさうだ。汽車に乘つてる姿が眼にちらつくよ。」
小菅は、やつと了解した。すぐ、ひくい溜息をもらすのだ。「美談だなあ。」
「美談だらう? いい話だらう?」飛騨は、くるつと小菅のはうへ顏をねぢむけた。氣嫌を直したのである。「僕は、こんな話に接すると、生きてゐるよろこびを感ずるのさ。」
思ひ切つて、僕は顏を出す。さうでもしないと、僕はこのうへ書きつづけることができぬ。この小説は混亂だらけだ。僕自身がよろめいてゐる。葉藏をもてあまし、小菅をもてあまし、飛騨をもてあました。彼等は、僕の稚拙な筆をもどかしがり、勝手に飛翔する。僕は彼等の泥靴にとりすがつて、待て待てとわめく。ここらで陣容を立て直さぬことには、だいいち僕がたまらない。
どだいこの小説は面白くない。姿勢だけのものである。こんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。しかしそのことは始めから覺悟してゐた。書いてゐるうちに、なにかひとつぐらゐ、むきなものが出るだらうと樂觀してゐた。僕はきざだ。きざではあるが、なにかひとつぐらゐ、いいとこがあるまいか。僕はおのれの調子づいた臭い文章に絶望しつつ、なにかひとつぐらゐなにかひとつぐらゐとそればかりを、あちこちひつくりかへして搜した。そのうちに、僕はじりじり硬直をはじめた。くたばつたのだ。ああ、小説は無心に書くに限る! 美しい感情を以て、人は、惡い文學を作る。なんといふ馬鹿な。この言葉に最大級のわざはひあれ。うつとりしてなくて、小説など書けるものか。ひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらゐのちがつた意味をもつておのれの胸へはねかへつて來るやうでは、ペンをへし折つて捨てなければならぬ。葉藏にせよ、飛騨にせよ、また小菅にせよ、何もあんなにことごとしく氣取つて見せなくてよい。どうせおさとは知れてゐるのだ。あまくなれ、あまくなれ。無念無想。
その夜、だいぶ更けてから、葉藏の兄が病室を訪れた。葉藏は飛騨と小菅と三人で、トランプをして遊んでゐた。きのふ兄がここへはじめて來たときにも、彼等はトランプをしてゐた筈である。けれども彼等はいちにちいつぱいトランプをいぢくつてばかりゐるわけでない。むしろ彼等は、トランプをいやがつてゐる程なのだ。よほど退屈したときでなければ持ち出さぬ。それも、おのれの個性を充分に發揮できないやうなゲエムはきつと避ける。手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやつて見せる。そしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑ふ。それからまだある。トランプの札をいちまい伏せて、さあ、これはなんだ、とひとりが言ふ。スペエドの女王。クラブの騎士。それぞれがおもひおもひに趣向こらした出鱈目を述べる。札をひらく。當つたためしのないのだが、それでもいつかはぴつたり當るだらう、と彼等は考へる。あたつたら、どんなに愉快だらう。つまり彼等は、長い勝負がいやなのだ。いちかばち。ひらめく勝負が好きなのだ。だから、トランプを持ち出しても、十分とそれを手にしてゐない。一日に十分間。そのみじかい時間に兄が二度も來合せた。
兄は病室へはひつて來て、ちよつと眉をひそめた。いつものんきにトランプだ、と考へちがひしたのである。このやうな不幸は人生にままある。葉藏は美術學校時代にも、これと同じやうな不幸を感じたことがある。いつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびをして、その瞬間瞬間に教授と視線が合つた。たしかにたつた三度であつた。日本有數のフランス語學者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたやうにして、大聲で言つた。「君は、僕の時間にはあくびばかりしてゐる。一時間に百囘あくびをする。」教授には、そのあくびの多すぎる囘數を事實かぞへてみたやうな氣がしてゐるらしかつた。
ああ、無念無想の結果を見よ。僕は、とめどもなくだらだらと書いてゐる。更に陣容を立て直さなければいけない。無心に書く境地など、僕にはとても企て及ばぬ。いつたいこれは、どんな小説になるのだらう。はじめから讀み返してみよう。
僕は、海濱の療養院を書いてゐる。この邊は、なかなか景色がよいらしい。それに療養院のなかのひとたちも、すべて惡人でない。ことに三人の青年は、ああ、これは僕たちの英雄だ。これだな。むづかしい理窟はくそにもならぬ。僕はこの三人を、主張してゐるだけだ。よし、それにきまつた。むりにもきめる。なにも言ふな。
兄は、みんなに輕く挨拶した。それから飛騨へなにか耳打ちした。飛騨はうなづいて、小菅と眞野へ目くばせした。
三人が病室から出るのを待つて、兄は言ひだした。
「電氣がくらいな。」
「うん。この病院ぢや明るい電氣をつけさせないのだ。坐らない?」
葉藏がさきにソフアへ坐つて、さう言つた。
「ああ。」兄は坐らずに、くらい電球を氣がかりらしくちよいちよいふり仰ぎつつ、狹い病室のなかをあちこちと歩いた。「どうやら、こつちのはうだけは、片づいた。」
「ありがたう。」葉藏はそれを口のなかで言つて、こころもち頭をさげた。
「私はなんとも思つてゐないよ。だが、これから家へ歸るとまたうるさいのだ。」けふは袴をはいてゐなかつた。黒い羽織には、なぜか羽織紐がついてなかつた。「私も、できるだけのことはするが、お前からも親爺へよい工合ひに手紙を出したはうがいい。お前たちは、のんきさうだが、しかし、めんだうな事件だよ。」
葉藏は返事をしなかつた。ソフアにちらばつてゐるトランプの札をいちまい手にとつて見つめてゐた。
「出したくないなら、出さなくていい。あさつて、警察へ行くんだ。警察でも、いままで、わざわざ取調べをのばして呉れてゐたのだ。けふは私と飛騨とが證人として取調べられた。ふだんのお前の素行をたづねられたから、おとなしいはうでしたと答へた。思想上になにか不審はなかつたか、と聞かれて、絶對にありません。」
兄は歩きまはるのをやめて、葉藏のまへの火鉢に立ちはだかり、おほきい兩手を炭火のうへにかざした。葉藏はその手のこまかくふるへてゐるのをぼんやり見てゐた。
「女のひとのことも聞かれた。全然知りません、と言つて置いた。飛騨もだいたい同じことを訊問されたさうだ。私の答辯と符合したらしいよ。お前も、ありのままを言へばいい。」
葉藏には兄の言葉の裏が判つてゐた。しかし、そしらぬふりをしてゐた。
「要らないことは言はなくていい。聞かれたことだけをはつきり答へるのだ。」
「起訴されるのかな。」葉藏はトランプの札の縁を右手のひとさし指で撫でまはしながらひくく呟いた。
「判らん。それは判らん。」語調をつよめてさう言つた。「どうせ四五日は警察へとめられると思ふから、その用意をして行け。あさつての朝、私はここへ迎へに來る。一緒に警察へ行くんだ。」
兄は、炭火へ瞳をおと
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