、ほつとけ、と言つてる。」
「大事件だなあ。」飛騨はひくい額に片手をあてて呟いた。
「葉ちやんは、ほんとに、よいのか。」
「案外、平氣だ。あいつは、いつもさうなんだ。」
小菅は浮かれてでもゐるやうに口角に微笑を含めて首かしげた。「どんな氣持ちだらうな。」
「わからん。――大庭に逢つてみないか。」
「いいよ。逢つたつて、話することもないし、それに、――こはいよ。」
ふたりは、ひくく笑ひだした。
眞野が病室から出て來た。
「聞えてゐます。ここで立ち話をしないやうにしませうよ。」
「あ。そいつあ。」
飛騨は恐縮して、おほきいからだを懸命に小さくした。小菅は不思議さうなおももちで眞野の顏を覗いてゐた。
「おふたりとも、あの、おひるの御飯は?」
「まだです。」ふたり一緒に答へた。
眞野は顏を赤くして噴きだした。
三人がそろつて食堂へ出掛けてから、葉藏は起きあがつた。雨にけむる沖を眺めたわけである。
「ここを過ぎて空濛の淵。」
それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際である。だいいち僕は、このやうな時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市《まち》。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠歎を、榮ある書きだしの一行にまつりあげたかつたからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまつたとて、僕は心弱くそれを抹殺する氣はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕のけふまでの生活を消すことだ。
「思想だよ、君、マルキシズムだよ。」
この言葉は間が拔けて、よい。小菅がそれを言つたのである。したり顏にさう言つて、ミルクの茶碗を持ち直した。
四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、院長の銅貨大の勳章を胸に三つ附けた肖像畫が高く掛けられて、十脚ほどの細長いテエブルがそのしたにひつそり並んでゐた。食堂は、がらんとしてゐた。飛騨と小菅は、東南の隅のテエブルに坐り、食事をとつてゐた。
「ずゐぶん、はげしくやつてゐたよ。」小菅は聲をひくめて語りつづけた。「弱いからだで、あんなに走りまはつてゐたのでは、死にたくもなるよ。」
「行動隊のキヤツプだらう。知つてゐる。」飛騨はパンをもぐもぐ噛みかへしつつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶつたのではない。左翼の用語ぐらゐ、そのころの青年なら誰でも知つてゐた。「しかし、――それだけでないさ。藝術家はそんなにあつさりしたものでないよ。」
食堂は暗くなつた。雨がつよくなつたのである。
小菅はミルクをひとくち飮んでから言つた。「君は、ものを主觀的にしか考へれないから駄目だな。そもそも、――そもそもだよ。人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客觀的な大きい原因がひそんでゐるものだ、といふ。うちでは、みんな、女が原因だときめてしまつてゐたが、僕は、さうでないと言つて置いた。女はただ、みちづれさ。別なおほきい原因があるのだ。うちの奴等はそれを知らない。君まで、變なことを言ふ。いかんぞ。」
飛騨は、あしもとの燃えてゐるストオブの火を見つめながら呟いた。「女には、しかし、亭主が別にあつたのだよ。」
ミルクの茶碗をしたに置いて小菅は應じた。「知つてるよ。そんなことは、なんでもないよ。葉ちやんにとつては、屁でもないことさ。女に亭主があつたから、心中するなんて、甘いぢやないか。」言ひをはつてから、頭のうへの肖像畫を片眼つぶつて狙つて眺めた。「これが、ここの院長かい。」
「さうだらう。しかし、――ほんたうのことは、大庭でなくちやわからんよ。」
「それあさうだ。」小菅は氣輕く同意して、きよろきよろあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。「寒いなあ。君は、けふここへ泊るかい。」
飛騨はパンをあわてて呑みくだして、首肯いた。「泊る。」
青年たちはいつでも本氣に議論をしない。お互ひに相手の神經へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神經をも大切にかばつてゐる。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きつとそこまで思ひつめる。だから、あらそひをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を數多く知つてゐる。否といふ一言をさへ、十色くらゐにはなんなく使ひわけて見せるだらう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交してゐるのだ。そしておしまひに笑つて握手しながら、腹のなかでお互ひがともにともにかう呟く。低腦め!
さて、僕の小説も、やうやくぼけて來たやうである。ここらで一轉、パノラマ式の數齣を展開させるか。おほきいことを言ふでない。なにをさせても無器用なお前が。ああ、うまく行けばよい。
翌る朝は、なごやかに晴れてゐた。海は凪いで、大島の噴火のけむりが、水平線の上に白くたちのぼつてゐた。よくない。僕は景色を書くのがいやなのだ。
い號室の患者が眼をさますと、病室は小春の日ざしで一杯であつた。附添ひの看護婦と、おはやうを言ひ交し、すぐ朝の體温を計つた。六度四分あつた。それから、食前の日光浴をしにヴエランダへ出た。看護婦にそつと横腹をこ突かれるさきから、もはや、に號室のヴエランダを盜み見してゐたのである。きのふの新患者は、紺絣の袷をきちんと着て籐椅子に坐り、海を眺めてゐた。まぶしさうにふとい眉をひそめてゐた。そんなによい顏とも思へなかつた。ときどき頬のガアゼを手の甲でかるく叩いてゐた。日光浴用の寢臺に横はつて、薄目あけつつそれだけを觀察してから、看護婦に本を持つて來させた。ボ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]リイ夫人。ふだんはこの本を退屈がつて、五六頁も讀むと投げ出してしまつたものであるが、けふは本氣に讀みたかつた。いま、これを讀むのは、いかにもふさはしげであると思つた。ぱらぱらとペエジを繰り、百頁のところあたりから讀み始めた。よい一行を拾つた。「エンマは、炬火《たいまつ》の光で、眞夜中に嫁入りしたいと思つた。」
ろ號室の患者も、眼覺めてゐた。日光浴をしにヴエランダへ出て、ふと葉藏のすがたを見るなり、また病室へ駈けこんだ。わけもなく怖かつた。すぐベツドへもぐり込んでしまつたのである。附添ひの母親は、笑ひながら毛布をかけてやつた。ろ號室の娘は、頭から毛布をひきかぶり、その小さい暗闇のなかで眼をかがやかせ、隣室の話聲に耳傾けた。
「美人らしいよ。」それからしのびやかな笑ひ聲が。
飛騨と小菅が泊つてゐたのである。その隣りの空いてゐた病室のひとつベツドにふたりで寢た。小菅がさきに眼を覺まし、その細ながい眼をしぶくあけてヴエランダへ出た。葉藏のすこし氣取つたポオズを横眼でちらと見てから、そんなポオズをとらせたもとを搜しに、くるつと左へ首をねぢむけた。いちばん端のヴエランダでわかい女が本を讀んでゐた。女の寢臺の背景は、苔のある濡れた石垣であつた。小菅は、西洋ふうに肩をきゆつとすくめて、すぐ部屋へ引き返し、眠つてゐる飛騨をゆり起した。
「起きろ。事件だ。」彼等は事件を捏造することを喜ぶ。「葉ちやんの大ポオズ。」
彼等の會話には、「大」といふ形容詞がしばしば用ゐられる。退屈なこの世のなかに、何か期待できる對象が欲しいからでもあらう。
飛騨は、おどろいてとび起きた。「なんだ。」
小菅は笑ひながら教へた。
「少女がゐるんだ。葉ちやんが、それへ得意の横顏を見せてゐるのさ。」
飛騨もはしやぎだした。兩方の眉をおほげさにぐつと上へはねあげて尋ねた。「美人か?」
「美人らしいよ。本の嘘讀みをしてゐる。」
飛騨は噴きだした。ベツドに腰かけたまま、ジヤケツを着、ズボンをはいてから、叫んだ。
「よし、とつちめてやらう。」とつちめるつもりはないのである。これはただ陰口だ。彼等は親友の陰口をさへ平氣で吐く。その場の調子にまかせるのである。「大庭のやつ、世界ぢゆうの女をみんな欲しがつてゐるんだ。」
すこし經つて、葉藏の病室から大勢の笑ひ聲がどつとおこり、その病棟の全部にひびき渡つた。い號室の患者は、本をぱちんと閉ぢて、葉藏のヴエランダの方をいぶかしげに眺めた。ヴエランダには朝日を受けて光つてゐる白い籐椅子がひとつのこされてあるきりで、誰もゐなかつた。その籐椅子を見つめながら、うつらうつらまどろんだ。ろ號室の患者は、笑ひ聲を聞いて、ふつと毛布から顏を出し、枕元に立つてゐる母親とおだやかな微笑を交した。へ號室の大學生は、笑ひ聲で眼を覺ました。大學生には、附添ひのひともなかつたし、下宿屋ずまひのやうな、のんきな暮しをしてゐるのであつた。笑ひ聲はきのふの新患者の室からなのだと氣づいて、その蒼黒い顏をあからめた。笑ひ聲を不謹愼とも思はなかつた。恢復期の患者に特有の寛大な心から、むしろ葉藏の元氣のよいらしいのに安心したのである。
僕は三流作家でないだらうか。どうやら、うつとりしすぎたやうである。パノラマ式などと柄でもないことを企て、たうとうこんなにやにさがつた。いや、待ち給へ。こんな失敗もあらうかと、まへもつて用意してゐた言葉がある。美しい感情を以て、人は、惡い文學を作る。つまり僕の、こんなにうつとりしすぎたのも、僕の心がそれだけ惡魔的でないからである。ああ、この言葉を考へ出した男にさいはひあれ。なんといふ重寶な言葉であらう。けれども作家は、一生涯のうちにたつたいちどしかこの言葉を使はれぬ。どうもさうらしい。いちどは、愛嬌である。もし君が、二度三度とくりかへして、この言葉を楯にとるなら、どうやら君はみじめなことになるらしい。
「失敗したよ。」
ベツドの傍のソフアに飛騨と並んで坐つてゐた小菅は、さう言ひむすんで、飛騨の顏と、葉藏の顏と、それから、ドアに倚りかかつて立つてゐる眞野の顏とを、順々に見まはし、みんな笑つてゐるのを見とどけてから、滿足げに飛騨のまるい右肩へぐつたり頭をもたせかけた。彼等は、よく笑ふ。なんでもないことにでも大聲たてて笑ひこける。笑顏をつくることは、青年たちにとつて、息を吐き出すのと同じくらゐ容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであらう。笑はなければ損をする。笑ふべきどんな些細な對象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪な美食主義のはかない片鱗ではなからうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑へない。笑ひくづれながらも、おのれの姿勢を氣にしてゐる。彼等はまた、よくひとを笑はす。おのれを傷つけてまで、ひとを笑はせたがるのだ。それはいづれ例の虚無の心から發してゐるのであらうが、しかし、そのもういちまい底になにか思ひつめた氣がまへを推察できないだらうか。犧牲の魂。いくぶんなげやりであつて、これぞといふ目的をも持たぬ犧牲の魂。彼等がたまたま、いままでの道徳律にはかつてさへ美談と言ひ得る立派な行動をなすことのあるのは、すべてこのかくされた魂のゆゑである。これらは僕の獨斷である。しかも書齋のなかの摸索でない。みんな僕自身の肉體から聞いた思念ではある。
葉藏は、まだ笑つてゐる。ベツドに腰かけて兩脚をぶらぶら動かし、頬のガアゼを氣にしいしい笑つてゐた。小菅の話がそんなにをかしかつたのであらうか。彼等がどのやうな物語にうち興ずるかの一例として、ここへ數行を挿入しよう。小菅がこの休暇中、ふるさとのまちから三里ほど離れた山のなかの或る名高い温泉場へスキイをしに行き、そこの宿屋に一泊した。深夜、厠へ行く途中、廊下で同宿のわかい女とすれちがつた。それだけのことである。しかし、これが大事件なのだ。小菅にしてみれば、鳥渡すれちがつただけでも、その女のひとにおのれのただならぬ好印象を與へてやらなければ氣がすまぬのである。別にどうしようといふあてもないのだが、そのすれちがつた瞬間に、彼はいのちを打ちこんでポオズを作る。人生へ本氣になにか期待をもつ。その女のひととのあらゆる經緯を瞬間のうちに考へめぐらし、胸のはりさける思ひをする。彼等は、そのやうな息づまる瞬間を、少くとも一日にいちどは經驗する。だから彼等は油斷をしない。ひとりでゐるときにでも、おのれの姿勢を飾つて
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