ことができぬのだ。おろかな男は、やすむのにさへ、へまをする。

「あそこだよ。あの岩だよ。」
 葉藏は梨の木の枯枝のあひだからちらちら見える大きなひらたい岩を指さした。岩のくぼみにはところどころ、きのふの雪がのこつてゐた。
「あそこから、はねたのだ。」葉藏は、おどけものらしく眼をくるくると丸くして言ふのである。
 小菅は、だまつてゐた。ほんたうに平氣で言つてゐるのかしら、と葉藏のこころを忖度してゐた。葉藏も平氣で言つてゐるのではなかつたが、しかしそれを不自然でなく言へるほどの伎倆をもつてゐたのである。
「かへらうか。」飛騨は、着物の裾を兩手でぱつとはしよつた。
 三人は、砂濱をひつかへしてあるきだした。海は凪いでゐた。まひるの日を受けて、白く光つてゐた。
 葉藏は、海へ石をひとつ抛つた。
「ほつとするよ。いま飛びこめば、もうなにもかも問題でない。借金も、アカデミイも、故郷も、後悔も、傑作も、恥も、マルキシズムも、それから友だちも、森も花も、もうどうだつていいのだ。それに氣がついたときは、僕はあの岩のうへで笑つたな。ほつとするよ。」
 小菅は、昂奮をかくさうとして、やたらに貝を拾ひはじめ
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