救ひたかつた。いや、このバイロンに化け損ねた一匹の泥狐を許してもらひたかつた。それだけが苦しいなかの、ひそかな祈願であつた。しかしこの日の近づくにつれ、僕は前にもまして荒涼たる氣配のふたたび葉藏を、僕をしづかに襲うて來たのを覺えるのだ。この小説は失敗である。なんの飛躍もない、なんの解脱もない。僕はスタイルをあまり氣にしすぎたやうである。そのためにこの小説は下品にさへなつてゐる。たくさんの言はでものことを述べた。しかも、もつと重要なことがらをたくさん言ひ落したやうな氣がする。これはきざな言ひかたであるが、僕が長生きして、幾年かのちにこの小説を手に取るやうなことでもあるならば、僕はどんなにみじめだらう。おそらくは一頁も讀まぬうちに僕は堪へがたい自己嫌惡にをののいて、卷を伏せるにきまつてゐる。いまでさへ、僕は、まへを讀みかへす氣力がないのだ。ああ、作家は、おのれのすがたをむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。美しい感情を以て、人は、惡い文學を作る。僕は三度この言葉を繰りかへす。そして、承認を與へよう。
 僕は文學を知らぬ。もいちど始めから、やり直さうか。君、どこから手をつけていつたらよいやら。
 僕こそ、渾沌と自尊心とのかたまりでなかつたらうか。この小説も、ただそれだけのものでなかつたらうか。ああ、なぜ僕はすべてに斷定をいそぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいつたい誰から教はつた?
 書かうか。青松園の最後の朝を書かう。なるやうにしかならぬのだ。
 眞野は裏山へ景色を見に葉藏を誘つた。
「とても景色がいいんですのよ。いまならきつと富士が見えます。」
 葉藏はまつくろい羊毛の襟卷を首に纏ひ、眞野は看護服のうへに松葉の模樣のある羽織を着込み、赤い毛絲のシヨオルを顏がうづまるほどぐるぐる卷いて、いつしよに療養院の裏庭へ下駄はいて出た。庭のすぐ北方には、赭土のたかい崖がそそり立つてゐて、それへせまい鐵の梯子がいつぽんかかつてゐるのであつた。眞野がさきに、その梯子をすばしこい足どりでするするのぼつた。
 裏山には枯草が深くしげつてゐて、霜がいちめんにおりてゐた。
 眞野は兩手の指先へ白い息を吐きかけて温めつつ、はしるやうにして山路をのぼつていつた。山路はゆるい傾斜をもつてくねくねと曲つてゐた。葉藏も、霜を踏み踏みそのあとを追つ
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