經に對しても、いささか毒消しの意義あれかし、と取りかかつた一齣であつたが、どうやら、これは甘すぎた。僕の小説が古典になれば、――ああ、僕は氣が狂つたのかしら、――諸君は、かへつて僕のこんな註釋を邪魔にするだらう。作家の思ひも及ばなかつたところにまで、勝手な推察をしてあげて、その傑作である所以を大聲で叫ぶだらう。ああ、死んだ大作家は仕合せだ。生きながらへてゐる愚作者は、おのれの作品をひとりでも多くのひとに愛されようと、汗を流して見當はづれの註釋ばかりつけてゐる。そして、まづまづ註釋だらけのうるさい駄作をつくるのだ。勝手にしろ、とつつぱなす、そんな剛毅な精神が僕にはないのだ。よい作家になれないな。やつぱり甘ちやんだ。さうだ。大發見をしたわい。しん底からの甘ちやんだ。甘さのなかでこそ、僕は暫時の憩ひをしてゐる。ああ、もうどうでもよい。ほつて置いて呉れ。道化の華とやらも、どうやらここでしぼんだやうだ。しかも、さもしく醜くきたなくしぼんだ。完璧へのあこがれ。傑作へのさそひ。「もう澤山だ。奇蹟の創造主《つくりぬし》。おのれ!」
 眞野は洗面所へ忍びこんだ。心ゆくまで泣かうと思つた。しかし、そんなにも泣けなかつたのである。洗面所の鏡を覗いて、涙を拭き、髮をなほしてから、食堂へおそい朝食をとりに出掛けた。
 食堂の入口ちかくのテエブルにへ號室の大學生が、からになつたスウプの皿をまへに置き、ひとりくつたくげに坐つてゐた。
 眞野を見て微笑みかけた。「患者さんは、お元氣のやうですね。」
 眞野は立ちどまつて、そのテエブルの端を固くつかまへながら答へた。
「ええ、もう罪のないことばかりおつしやつて、私たちを笑はせていらつしやいます。」
「そんならいい。畫家ですつて?」
「ええ。立派な畫をかきたいつて、しよつちゆうおつしやつて居られますの。」言ひかけて耳まで赤くした。「眞面目なんですのよ。眞面目でございますから、眞面目でございますからお苦しいこともおこるわけね。」
「さうです。さうです。」大學生も顏をあからめつつ、心から同意した。
 大學生はちかく退院できることにきまつたので、いよいよ寛大になつてゐたのである。
 この甘さはどうだ。諸君は、このやうな女をきらひであらうか。畜生! 古めかしいと笑ひ給へ。ああ、もはや憩ひも、僕にはてれくさくなつてゐる。僕は、ひとりの女をさへ、註釋なしには愛する
前へ 次へ
全37ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング