う見出しでございました。恥辱は、それだけでございませんでした。近所の人たちは、うろうろ私の家のまわりを歩いて、私もはじめは、それがなんの意味かわかりませんでしたが、みんな私の様《さま》を覗《のぞ》きに来ているのだ、と気附いたときには、私はわなわな震えました。私のあの鳥渡《ちょっと》した動作が、どんなに大事件だったのか、だんだんはっきりわかって来て、あのとき、私のうちに毒薬があれば私は気楽に呑《の》んだことでございましょうし、ちかくに竹藪《たけやぶ》でもあれば、私は平気で中へはいっていって首を吊《つ》ったことでございましょう。二、三日のあいだ、私の家では、店をしめました。
やがて私は、水野さんからもお手紙いただきました。
――僕は、この世の中で、さき子さんを一ばん信じている人間であります。ただ、さき子さんには、教育が足りない。さき子さんは、正直な女性なれども、環境に於《お》いて正しくないところがあります。僕はそこの個所を直してやろうと努力して来たのであるが、やはり絶対のものがあります。人間は、学問がなければいけません。先日、友人とともに海水浴に行き、海浜にて人間の向上心の必要について、ながいこと論じ合った。僕たちは、いまに偉くなるだろう。さき子さんも、以後は行いをつつしみ、犯した罪の万分の一にても償い、深く社会に陳謝するよう、社会の人、その罪を憎みてその人を憎まず。水野三郎。(読後かならず焼却のこと。封筒もともに焼却して下さい。必ず)
これが、手紙の全文でございます。私は、水野さんが、もともと、お金持の育ちだったことを忘れていました。
針の筵《むしろ》の一日一日がすぎて、もう、こんなに涼しくなってまいりました。今夜は、父が、どうもこんなに電燈が暗くては、気が滅入っていけない、と申して、六畳間の電球を、五十|燭《しょく》のあかるい電球と取りかえました。そうして、親子三人、あかるい電燈の下で、夕食をいただきました。母は、ああ、まぶしい、まぶしいといっては、箸《はし》持つ手を額にかざして、たいへん浮き浮きはしゃいで、私も、父にお酌をしてあげました。私たちのしあわせは、所詮《しょせん》こんな、お部屋の電球を変えることくらいのものなのだ、とこっそり自分に言い聞かせてみましたが、そんなにわびしい気も起らず、かえってこのつつましい電燈をともした私たちの一家が、ずいぶん綺麗《きれい》な走馬燈のような気がして来て、ああ、覗《のぞ》くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでも知らせてあげたい静かなよろこびが、胸にこみあげて来たのでございます。
底本:「きりぎりす」新潮文庫、新潮社
1974(昭和49)年9月30日発行
1988(昭和63)年3月15日29刷改版
2001(平成13)年5月5日53刷
初出:「若草」
1937(昭和12)年10月号
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2005年10月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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