かいがい》しく立ち働いた。私は、二十三歳、Hは、二十歳である。
五反田は、阿呆の時代である。私は完全に、無意志であった。再出発の希望は、みじんも無かった。たまに訪ねて来る友人達の、御機嫌ばかりをとって暮していた。自分の醜態の前科を、恥じるどころか、幽かに誇ってさえいた。実に、破廉恥な、低能の時期であった。学校へもやはり、ほとんど出なかった。すべての努力を嫌い、のほほん顔でHを眺めて暮していた。馬鹿である。何も、しなかった。ずるずるまた、れいの仕事の手伝いなどを、はじめていた。けれども、こんどは、なんの情熱も無かった。遊民の虚無《ニヒル》。それが、東京の一隅にはじめて家を持った時の、私の姿だ。
そのとしの夏に移転した。神田・同朋町《どうぼうちょう》。さらに晩秋には、神田・和泉町《いずみちょう》。その翌年の早春に、淀橋《よどばし》・柏木《かしわぎ》。なんの語るべき事も無い。朱麟堂《しゅりんどう》と号して俳句に凝ったりしていた。老人である。例の仕事の手助けの為に、二度も留置場に入れられた。留置場から出る度に私は友人達の言いつけに従って、別な土地に移転するのである。何の感激も、また何の嫌悪も無かった。それが皆の為に善いならば、そうしましょう、という無気力きわまる態度であった。ぼんやり、Hと二人で、雌雄の穴居の一日一日を迎え送っているのである。Hは快活であった。一日に二、三度は私を口汚く呶鳴《どな》るのだが、あとはけろりとして英語の勉強をはじめるのである。私が時間割を作ってやって勉強させていたのである。あまり覚えなかったようである。英語はロオマ字をやっと読めるくらいになって、いつのまにか、止めてしまった。手紙は、やはり下手であった。書きたがらなかった。私が下書を作ってやった。あねご気取りが好きなようであった。私が警察に連れて行かれても、そんなに取乱すような事は無かった。れいの思想を、任侠《にんきょう》的なものと解して愉快がっていた日さえあった。同朋町、和泉町、柏木、私は二十四歳になっていた。
そのとしの晩春に、私は、またまた移転しなければならなくなった。またもや警察に呼ばれそうになって、私は、逃げたのである。こんどのは、少し複雑な問題であった。田舎の長兄に、出鱈目《でたらめ》な事を言ってやって、二箇月分の生活費を一度に送ってもらい、それを持って柏木を引揚げた。家財道具を、あちこちの友人に少しずつ分けて預かってもらい、身のまわりの物だけを持って、日本橋・八丁堀の材木屋の二階、八畳間に移った。私は北海道生まれ、落合一雄という男になった。流石《さすが》に心細かった。所持のお金を大事にした。どうにかなろうという無能な思念で、自分の不安を誤魔化していた。明日に就いての心構えは何も無かった。何も出来なかった。時たま、学校へ出て、講堂の前の芝生に、何時間でも黙って寝ころんでいた。或る日の事、同じ高等学校を出た経済学部の一学生から、いやな話を聞かされた。煮え湯を飲むような気がした。まさか、と思った。知らせてくれた学生を、かえって憎んだ。Hに聞いてみたら、わかる事だと思った。いそいで八丁堀、材木屋の二階に帰って来たのだが、なかなか言い出しにくかった。初夏の午後である。西日が部屋にはいって、暑かった。私は、オラガビイルを一本、Hに買わせた。当時、オラガビイルは、二十五銭であった。その一本を飲んで、もう一本、と言ったら、Hに呶鳴られた。呶鳴られて私も、気持に張りが出て来て、きょう学生から聞いて来た事を、努めてさりげない口調で、Hに告げることが出来た。Hは半可臭《はんかくさ》い、と田舎の言葉で言って、怒ったように、ちらと眉をひそめた。それだけで、静かに縫い物をつづけていた。濁った気配は、どこにも無かった。私は、Hを信じた。
その夜私は悪いものを読んだ。ルソオの懺悔録《ざんげろく》であった。ルソオが、やはり細君の以前の事で、苦汁を嘗めた箇所に突き当り、たまらなくなって来た。私は、Hを信じられなくなったのである。その夜、とうとう吐き出させた。学生から聞かされた事は、すべて本当であった。もっと、ひどかった。掘り下げて行くと、際限が無いような気配さえ感ぜられた。私は中途で止めてしまった。
私だとて、その方面では、人を責める資格が無い。鎌倉の事件は、どうしたことだ。けれども私は、その夜は煮えくりかえった。私はその日までHを、謂《い》わば掌中の玉のように大事にして、誇っていたのだということに気附いた。こいつの為に生きていたのだ。私は女を、無垢《むく》のままで救ったとばかり思っていたのである。Hの言うままを、勇者の如く単純に合点していたのである。友人達にも、私は、それを誇って語っていた。Hは、このように気象が強いから、僕の所へ来る迄は、守りとおす事が出来たのだと。目出度いとも、何とも、形容の言葉が無かった。馬鹿息子である。女とは、どんなものだか知らなかった。私はHの欺瞞《ぎまん》を憎む気は、少しも起らなかった。告白するHを可愛いとさえ思った。背中を、さすってやりたく思った。私は、ただ、残念であったのである。私は、いやになった。自分の生活の姿を、棍棒で粉砕したく思った。要するに、やり切れなくなってしまったのである。私は、自首して出た。
検事の取調べが一段落して、死にもせず私は再び東京の街を歩いていた。帰るところは、Hの部屋より他に無い。私はHのところへ、急いで行った。侘しい再会である。共に卑屈に笑いながら、私たちは力弱く握手した。八丁堀を引き上げて、芝区・白金三光町。大きい空家の、離れの一室を借りて住んだ。故郷の兄たちは、呆れ果てながらも、そっとお金を送ってよこすのである。Hは、何事も無かったように元気になっていた。けれども私は、少しずつ、どうやら阿呆から眼ざめていた。遺書を綴った。「思い出」百枚である。今では、この「思い出」が私の処女作という事になっている。自分の幼時[#「幼時」は底本では「幼児」]からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋の事である。草|蓬々《ほうほう》の広い廃園を眺めながら、私は離れの一室に坐って、めっきり笑を失っていた。私は、再び死ぬつもりでいた。きざと言えば、きざである。いい気なものであった。私は、やはり、人生をドラマと見做《みな》していた。いや、ドラマを人生と見做していた。もう今は、誰の役にも立たぬ。唯一のHにも、他人の手垢《てあか》が附いていた。生きて行く張合いが全然、一つも無かった。ばかな、滅亡の民の一人として、死んで行こうと、覚悟をきめていた。時潮が私に振り当てた役割を、忠実に演じてやろうと思った。必ず人に負けてやる、という悲しい卑屈な役割を。
けれども人生は、ドラマでなかった。二幕目は誰も知らない。「滅び」の役割を以て登場しながら、最後まで退場しない男もいる。小さい遺書のつもりで、こんな穢い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴ったのであるが、その遺書が、逆に猛烈に気がかりになって、私の虚無に幽かな燭燈《ともし》がともった。死に切れなかった。その「思い出」一篇だけでは、なんとしても、不満になって来たのである。どうせ、ここまで書いたのだ。全部を書いて置きたい。きょう迄の生活の全部を、ぶちまけてみたい。あれも、これも。書いて置きたい事が一ぱい出て来た。まず、鎌倉の事件を書いて、駄目。どこかに手落が在る。さらに又、一作書いて、やはり不満である。溜息ついて、また次の一作にとりかかる。ピリオドを打ち得ず、小さいコンマの連続だけである。永遠においでおいでの、あの悪魔《デモン》に、私はそろそろ食われかけていた。蟷螂《とうろう》の斧《おの》である。
私は二十五歳になっていた。昭和八年である。私は、このとしの三月に大学を卒業しなければならなかった。けれども私は、卒業どころか、てんで試験にさえ出ていない。故郷の兄たちは、それを知らない。ばかな事ばかり、やらかしたがそのお詫びに、学校だけは卒業して見せてくれるだろう。それくらいの誠実は持っている奴だと、ひそかに期待していた様子であった。私は見事に裏切った。卒業する気は無いのである。信頼している者を欺くことは、狂せんばかりの地獄である。それからの二年間、私は、その地獄の中に住んでいた。来年は、必ず卒業します。どうか、もう一年、おゆるし下さい、と長兄に泣訴しては裏切る。そのとしも、そうであった。その翌るとしも、そうであった。死ぬるばかりの猛省と自嘲と恐怖の中で、死にもせず私は、身勝手な、遺書と称する一聯の作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所詮《しょせん》、青くさい気取った感傷に過ぎなかったのかも知れない。けれども私は、その感傷に、命を懸けていた。私は書き上げた作品を、大きい紙袋に、三つ四つと貯蔵した。次第に作品の数も殖えて来た。私は、その紙袋に毛筆で、「晩年」と書いた。その一聯の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。芝の空家に買手が附いたとやらで、私たちは、そのとしの早春に、そこを引き上げなければならなかった。学校を卒業できなかったので、故郷からの仕送りも、相当減額されていた。一層倹約をしなければならぬ。杉並区・天沼《あまぬま》三丁目。知人の家の一部屋を借りて住んだ。その人は、新聞社に勤めて居られて、立派な市民であった。それから二年間、共に住み、実に心配をおかけした。私には、学校を卒業する気は、さらに無かった。馬鹿のように、ただ、あの著作集の完成にのみ、気を奪われていた。何か言われるのが恐しくて、私は、その知人にも、またHにさえ、来年は卒業出来るという、一時のがれの嘘をついていた。一週間に一度くらいは、ちゃんと制服を着て家を出た。学校の図書館で、いい加減にあれこれ本を借り出して読み散らし、やがて居眠りしたり、また作品の下書をつくったりして、夕方には図書館を出て、天沼へ帰った。Hも、またその知人も、私を少しも疑わなかった。表面は、全く無事であったが、私は、ひそかに、あせっていた。刻一刻、気がせいた。故郷からの仕送りが、切れないうちに書き終えたかった。けれども、なかなか骨が折れた。書いては破った。私は、ぶざまにもあの悪魔《デモン》に、骨の髄まで食い尽されていた。
一年経った。私は卒業しなかった。兄たちは激怒したが、私はれいの泣訴した。来年は必ず卒業しますと、はっきり嘘を言った。それ以外に、送金を願う口実は無かった。実情はとても誰にも、言えたものではなかった。私は共犯者を作りたくなかったのである。私ひとりを、完全に野良息子にして置きたかった。すると、周囲の人の立場も、はっきりしていて、いささかも私に巻添え食うような事がないだろうと信じた。遺書を作るために、もう一年などと、そんな突飛な事は言い出せるものでない。私は、ひとりよがりの謂わば詩的な夢想家と思われるのが、何よりいやだった。兄たちだって、私がそんな非現実的な事を言い出したら、送金したくても、送金を中止するより他は無かったろう。実情を知りながら送金したとなれば、兄たちは、後々世間の人から、私の共犯者のように思われるだろう。それは、いやだ。私はあくまで狡智佞弁《こうちねいべん》の弟になって兄たちを欺いていなければならぬ、と盗賊の三分の理窟《りくつ》に似ていたが、そんなふうに大真面目に考えていた。私は、やはり一週間にいちどは、制服を着て登校した。Hも、またその新聞社の知人も、来年の卒業を、美しく信じていた。私は、せっぱ詰まった。来る日も来る日も、真黒だった。私は、悪人でない! 人を欺く事は、地獄である。やがて、天沼一丁目。三丁目は通勤に不便のゆえを以て、知人は、そのとしの春に、一丁目の市場の裏に居を移した。荻窪駅の近くである。誘われて私たちも一緒について行き、その家の二階の部屋を借りた。私は毎夜、眠られなかった。安い酒を飲んだ。痰《たん》が、やたらに出た。病気かも知れぬと思うのだが、私は、それどころでは無かった。早く、あの、紙袋の中の作品集を纒《まと
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