「他に部屋が無いのですか」
「ええ。みんな、ふさがって居ります。ここは涼しいですよ」
「そうですか」
私は、馬鹿にされていたようである。服装が悪かったせいかも知れない。
「お泊りは、三円五十銭と四円です。御中食は、また、別にいただきます。どういたしましょうか」
「三円五十銭のほうにして下さい。中食は、たべたい時に、そう言います。十日ばかり、ここで勉強したいと思って来たのですが」
「ちょっと、お待ち下さい」女中は、階下へ行って、しばらくして、また部屋にやって来て、「あの、永い御滞在でしたら、前に、いただいて置く事になって居りますけれど」
「そうですか。いくら差し上げたら、いいのでしょう」
「さあ、いくらでも」と口ごもっている。
「五十円あげましょうか」
「はあ」
私は机の上に、紙幣を並べた。たまらなくなって来た。
「みんな、あげましょう。九十円あります。煙草銭だけは、僕は、こちらの財布に残してあります」
なぜ、こんなところに来たのだろうと思った。
「相すみません。おあずかり致します」
女中は、去った。怒ってはならない。大事な仕事がある。いまの私の身分には、これ位の待遇が、相応しているのかも知れない、と無理矢理、自分に思い込ませて、トランクの底からペン、インク、原稿用紙などを取り出した。
十年ぶりの余裕は、このような結果であった。けれども、この悲しさも、私の宿命の中に規定されて在ったのだと、もっともらしく自分に言い聞かせ、怺《こら》えてここで仕事をはじめた。
遊びに来たのでは無い。骨折りの仕事をしに来たのだ。私はその夜、暗い電燈の下で、東京市の大地図を机いっぱいに拡げた。
幾年振りで、こんな、東京全図というものを拡げて見る事か。十年以前、はじめて東京に住んだ時には、この地図を買い求める事さえ恥ずかしく、人に、田舎者と笑われはせぬかと幾度となく躊躇《ちゅうちょ》した後、とうとう一部、うむと決意し、ことさらに乱暴な自嘲《じちょう》の口調で買い求め、それを懐中し荒《すさ》んだ歩きかたで下宿へ帰った。夜、部屋を閉め切り、こっそり、その地図を開いた。赤、緑、黄の美しい絵模様。私は、呼吸を止めてそれに見入った。隅田川。浅草。牛込。赤坂。ああなんでも在る。行こうと思えば、いつでも、すぐに行けるのだ。私は、奇蹟《きせき》を見るような気さえした。
今では、此の蚕に食われた桑の葉のような東京市の全形を眺めても、そこに住む人、各々の生活の姿ばかりが思われる。こんな趣きの無い原っぱに、日本全国から、ぞろぞろ人が押し寄せ、汗だくで押し合いへし合い、一寸の土地を争って一喜一憂し、互に嫉視《しっし》、反目して、雌は雄を呼び、雄は、ただ半狂乱で歩きまわる。頗《すこぶ》る唐突に、何の前後の関聯《かんれん》も無く「埋木」という小説の中の哀しい一行が、胸に浮かんだ。「恋とは」「美しき事を夢みて、穢《きたな》き業《わざ》をするものぞ」東京とは直接に何の縁も無い言葉である。
戸塚。──私は、はじめ、ここにいたのだ。私のすぐ上の兄が、この地に、ひとりで一軒の家を借りて、彫刻を勉強していたのである。私は昭和五年に弘前《ひろさき》の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学した。仏蘭西語を一字も解し得なかったけれども、それでも仏蘭西文学の講義を聞きたかった。辰野隆《たつのゆたか》先生を、ぼんやり畏敬《いけい》していた。私は、兄の家から三町ほど離れた新築の下宿屋の、奥の一室を借りて住んだ。たとい親身の兄弟でも、同じ屋根の下に住んで居れば、気まずい事も起るものだ、と二人とも口に出しては言わないが、そんなお互の遠慮が無言の裡《うち》に首肯せられて、私たちは同じ町内ではあったが、三町だけ離れて住む事にしたのである。それから三箇月経って、この兄は病死した。二十七歳であった。兄の死後も、私は、その戸塚の下宿にいた。二学期からは、学校へは、ほとんど出なかった。世人の最も恐怖していたあの日蔭《ひかげ》の仕事に、平気で手助けしていた。その仕事の一翼と自称する大袈裟《おおげさ》な身振りの文学には、軽蔑《けいべつ》を以て接していた。私は、その一期間、純粋な政治家であった。そのとしの秋に、女が田舎からやって来た。私が呼んだのである。Hである。Hとは、私が高等学校へはいったとしの初秋に知り合って、それから三年間あそんだ。無心の芸妓である。私は、この女の為に、本所区東|駒形《こまがた》に一室を借りてやった。大工さんの二階である。肉体的の関係は、そのとき迄いちども無かった。故郷から、長兄がその女の事でやって来た。七年前に父を喪《うしな》った兄弟は、戸塚の下宿の、あの薄暗い部屋で相会うた。兄は、急激に変化している弟の兇悪な態度に接して、涙を流した。必ず夫婦にしていただく条件で、私は兄に女を
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