借りて家財道具全部を持ち込み、病院に移住してしまった。五月、六月、七月、そろそろ藪蚊《やぶか》が出て来て病室に白い蚊帳を吊りはじめたころ、私は院長の指図で、千葉県船橋町に転地した。海岸である。町はずれに、新築の家を借りて住んだ。転地保養の意味であったのだが、ここも、私の為に悪かった。地獄の大動乱がはじまった。私は、阿佐ヶ谷の外科病院にいた時から、いまわしい悪癖に馴染んでいた。麻痺《まひ》剤の使用である。はじめは医者も私の患部の苦痛を鎮める為に、朝夕ガアゼの詰めかえの時にそれを使用したのであったが、やがて私は、その薬品に拠らなければ眠れなくなった。私は不眠の苦痛には極度にもろかった。私は毎夜、医者にたのんだ。ここの医者は、私のからだを見放していた。私の願いを、いつでも優しく聞き容れてくれた。内科病院に移ってからも、私は院長に執拗《しつよう》にたのんだ。院長は三度に一度くらいは渋々応じた。もはや、肉体の為では無くて、自分の慚愧《ざんき》、焦躁《しょうそう》を消す為に、医者に求めるようになっていたのである。私には侘しさを怺える力が無かった。船橋に移ってからは町の医院に行き、自分の不眠と中毒症状を訴えて、その薬品を強要した。のちには、その気の弱い町医者に無理矢理、証明書を書かせて、町の薬屋から直接に薬品を購入した。気が附くと、私は陰惨な中毒患者になっていた。たちまち、金につまった。私は、その頃、毎月九十円の生活費を、長兄から貰っていた。それ以上の臨時の入費に就いては、長兄も流石に拒否した。当然の事であった。私は、兄の愛情に報いようとする努力を何一つ、していない。身勝手に、命をいじくり廻してばかりいる。そのとしの秋以来、時たま東京の街に現れる私の姿は、既に薄穢い半狂人であった。その時期の、様々の情ない自分の姿を、私は、みんな知っている。忘れられない。私は、日本一の陋劣《ろうれつ》な青年になっていた。十円、二十円の金を借りに、東京へ出て来るのである。雑誌社の編輯員《へんしゅういん》の面前で、泣いてしまった事もある。あまり執拗《しつこ》くたのんで編輯員に呶鳴られた事もある。その頃は、私の原稿も、少しは金になる可能性があったのである。私が阿佐ヶ谷の病院や、経堂の病院に寝ている間に、友人達の奔走に依り、私の、あの紙袋の中の「遺書」は二つ三つ、いい雑誌に発表せられ、その反響として起った罵倒の言葉も、また支持の言葉も、共に私には強烈すぎて狼狽《ろうばい》、不安の為に逆上して、薬品中毒は一層すすみ、あれこれ苦しさの余り、のこのこ雑誌社に出掛けては編輯員または社長にまで面会を求めて、原稿料の前借をねだるのである。自分の苦悩に狂いすぎて、他の人もまた精一ぱいで生きているのだという当然の事実に気附かなかった。あの紙袋の中の作品も、一篇残さず売り払ってしまった。もう何も売るものが無い。すぐには作品も出来なかった。既に材料が枯渇して、何も書けなくなっていた。その頃の文壇は私を指さして、「才あって徳なし」と評していたが、私自身は、「徳の芽あれども才なし」であると信じていた。私には所謂《いわゆる》、文才というものは無い。からだごと、ぶっつけて行くより、てを知らなかった。野暮天である。一宿一飯の恩義などという固苦しい道徳に悪くこだわって、やり切れなくなり、逆にやけくそに破廉恥ばかり働く類《たぐい》である。私は厳しい保守的な家に育った。借銭は、最悪の罪であった。借銭から、のがれようとして、更に大きい借銭を作った。あの薬品の中毒をも、借銭の慚愧を消すために、もっともっと、と自ら強くした。薬屋への支払いは、増大する一方である。私は白昼の銀座をめそめそ泣きながら歩いた事もある。金が欲しかった。私は二十人ちかくの人から、まるで奪い取るように金を借りてしまった。死ねなかった。その借銭を、きれいに返してしまってから、死にたく思っていた。
私は、人から相手にされなくなった。船橋へ転地して一箇年経って、昭和十一年の秋に私は自動車に乗せられ、東京、板橋区の或る病院に運び込まれた。一夜眠って、眼が覚めてみると、私は脳病院の一室にいた。
一箇月そこで暮して、秋晴れの日の午後、やっと退院を許された。私は、迎えに来ていたHと二人で自動車に乗った。
一箇月振りで逢ったわけだが、二人とも、黙っていた。自動車が走り出して、しばらくしてからHが口を開いた。
「もう薬は、やめるんだね」怒っている口調であった。
「僕は、これから信じないんだ」私は病院で覚えて来た唯一の事を言った。
「そう」現実家のHは、私の言葉を何か金銭的な意味に解したらしく、深く首肯《うなず》いて、「人は、あてになりませんよ」
「おまえの事も信じないんだよ」
Hは気まずそうな顔をした。
船橋の家は、私の入院中に廃止せられて、H
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