礼をした。
「あと、おまえから言うこと無いか?」こんどは私も笑って、妹に尋ねた。妹は、
「もう、いい」と顔を伏せて言った。
すぐ出発の号令が下った。私は再び人ごみの中にこそこそ隠れて行ったが、やはり妹に背中を押されて、こんどは運転台の下まで進出してしまった。その辺には、T君の両親が立っているだけである。
「安心して行って来給え」私は大きい声で言った。T君の厳父は、ふと振り返って私の顔を見た。ばかに出しゃばる、こいつは何者という不機嫌の色が、その厳父の眼つきに、ちらと見えた。けれども私は、その時は、たじろがなかった。人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。私は丙種合格で、しかも貧乏だが、いまは遠慮する事は無い。東京名所は、更に大きい声で、
「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で、万一むずかしい場合が惹起《じゃっき》したところで、私は世間体などに構わぬ無法者だ、必ず二人の最後の力になってやれると思った。
増上寺山門の一景を得て、私は自分の作品の構想も、いまや十分に弓を、満月の如くきりりと引きしぼったような気がした。それから数日後、東京市の大地図と、ペン、インク、原稿用紙を持って、いさんで伊豆に旅立った。伊豆の温泉宿に到着してからは、どんな事になったか。旅立ってから、もう十日も経つけれど、まだ、あの温泉宿に居るようである。何をしている事やら。
底本:「走れメロス」新潮文庫、新潮社
1967(昭和42)年7月10日発行
1985(昭和60)年9月15日40刷改版
1986(昭和61)年9月25日43刷
初出:「文学界」
1941(昭和16)年1月号
※誤植を疑った箇所を、1995(平成7)年5月30日58刷の表記にそって、あらためました。
入力:土屋隆
校正:野口英司
2006年6月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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