覚めの現実を言い出し得ず、もう一刻、もう一刻と自ら虚偽の地獄を深めている。もちろん新聞社などへ、はいるつもりも無かったし、また試験にパスする筈も無かった。完璧《かんぺき》の瞞着の陣地も、今は破れかけた。死ぬ時が来た、と思った。私は三月中旬、ひとりで鎌倉へ行った。昭和十年である。私は鎌倉の山で縊死《いし》を企てた。
 やはり鎌倉の、海に飛び込んで騒ぎを起してから、五年目の事である。私は泳げるので、海で死ぬのは、むずかしかった。私は、かねて確実と聞いていた縊死を選んだ。けれども私は、再び、ぶざまな失敗をした。息を、吹き返したのである。私の首は、人並はずれて太いのかも知れない。首筋が赤く爛《ただ》れたままの姿で、私は、ぼんやり天沼の家に帰った。
 自分の運命を自分で規定しようとして失敗した。ふらふら帰宅すると、見知らぬ不思議な世界が開かれていた。Hは、玄関で私の背筋をそっと撫《な》でた。他の人も皆、よかった、よかったと言って、私を、いたわってくれた。人生の優しさに私は呆然とした。長兄も、田舎から駈けつけて来ていた。私は、長兄に厳しく罵倒《ばとう》されたけれども、その兄が懐しくて、慕わしくて、ならなかった。私は、生まれてはじめてと言っていいくらいの不思議な感情ばかりを味わった。
 思いも設けなかった運命が、すぐ続いて展開した。それから数日後、私は劇烈な腹痛に襲われたのである。私は一昼夜眠らずに怺《こら》えた。湯たんぽで腹部を温めた。気が遠くなりかけて、医者を呼んだ。私は蒲団のままで寝台車に乗せられ、阿佐ヶ谷の外科病院に運ばれた。すぐに手術された。盲腸炎である。医者に見せるのが遅かった上に、湯たんぽで温めたのが悪かった。腹膜に膿《うみ》が流出していて、困難な手術になった。手術して二日目に、咽喉《のど》から血塊がいくらでも出た。前からの胸部の病気が、急に表面にあらわれて来たのであった。私は、虫の息になった。医者にさえはっきり見放されたけれども、悪業の深い私は、少しずつ恢復《かいふく》して来た。一箇月たって腹部の傷口だけは癒着した。けれども私は伝染病患者として、世田谷区・経堂《きょうどう》の内科病院に移された。Hは、絶えず私の傍に附いていた。ベエゼしてもならぬと、お医者に言われました、と笑って私に教えた。その病院の院長は、長兄の友人であった。私は特別に大事にされた。広い病室を二つ
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