、あのはち切れさうだつた血色のいゝ皮膚が、今はもうタブタブして居て、ガサガサした感じさへ与へて居た。
二人はめいめい先年の絶大な恩を受けたこと、及びこの度の戦勝の祝をくどくどしく申し述べた。謝源は絶えずニコ/\してそれを聞いて居た。殊に両人ともまだ琉球のことばを忘れて居ないで、たやすく思ふまゝに言ふことが出来て居たといふことは謝源をムシヤウに嬉しがらせた。謝源は二人の言葉の終るのを待ち遠しそうにして「アヽよし/\両人とも大儀であつたナ」と言つた。彼の得意はもうその絶頂に達して居た。異人種から戦勝の祝のことばを述べられる。恐らくそれは日本の内地にでさへもなかつたことだつたらう。
もう五十の齢にも及ばうとして居る謝源も前後を忘れて「アヽ愉快だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と叫びたくなつた程であつた。蘭人はやがて紫の布に包んだ祝の品を恭しく差し出した。郭光はこれを介して謝源に渡した。偉いと言はれてもいくらか原始的な人種である琉球人たる謝源はその品を受け取つてしまつてからは、それを見たくてたまらなかつた。それは長い軸物であつた。一体なんであらうと彼は考へた。南蛮の……兵法……そうでなければ何か新らしい武器の製法……剣術の法……を書いたもの……それとも舶来の絵……いろ/\と考へて見た。
もう彼はこらへ切れなくなつて、両人に「オイここで開いて見てもいゝだらうナ」と言つた。勿論両人はそれに対して異存がある筈はなかつた。謝源はその時は全く子供のやうにハシヤギながら、急いでそれを開いて見たのであつた。地図であつた。勿論それは両人に聞いて始めて世界の地図だといふことを知つたのだ。
謝源は全くそれを珍らしがつた。彼はこの地図の中に自分の国も亦今自分の占領した石垣島もあるのだといふことを思ひついた。
そう思ひついた以上は彼はそれがどんな風にこの地図に記入されてあるかを知りたくてしやうがなかつた。謝源はその地図を蘭人に示して「もそつと、前に進んでこれを説明して呉れぬか」と言つた。両人は静かに前に進んで行つた。謝源は地図を下に置いて蘭人の説明を待つた。丈の高い方の蘭人はスラスラ説明をして行つた。「この青い所は海で……このとび色をして居る所が山で御座います。この地図は上の方は北で、下の方は南……」謝源はそんなことはどうでもよかつた。早く自分の領土がどこにあるかを知りたくてたまらなかつた。丈の高い蘭人は尚説明をし続けて行つた。「この北方の大きな国は夜国と申します。夜ばかり続くそうです。そのチヨツと下の大きな所はガルシヤと申します。ズーツとこつちに来ましてこの広い島はメリカンと申します……」謝源は可成失望をしてしまつた。目ぼしい大きい国は皆名さへ聞いたことのないものばかりであつたからだ。それでも彼は細いながらも望みをもつて居た。とうとう「ヨシヨシ。して、わしの領土は一体どこぢや」と聞いてしまつた。謝源はやがて蘭人が指さして呉れる大きな国を想像して居た。蘭人は少しためらつて居た。謝源はせきこんで「ウン一体どこぢや」と言つた。二人の蘭人は互に顔を見合せて何事かうなづき合つて居たが、やがて太つた方の蘭人がさも当惑したやうにして「サア、チヨツト見つかりませんやうです、この地図は大きい国ばかりを書いたものですから、あまり名の知れてない、こまかい国は記入してないかも知れません、現にこれには日本さへあるかなしのやうに、小さく書かれて居ますから……」とモヂモヂしながら言つた。
謝源は「何ツ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」とたつた一こと低いが併し鋭く叫んだ。それきり呼吸が止つてしまつたやうな気がした。全身の血が一度に血管を破つて体外にほとばしり出たやうな感じがした。眼玉の上がズキンとなにかで、こ突かれたやうな気がした。全身がブルブル震つたことも意識した。彼はその蘭人の為に土足のまゝで鼻柱を挫かれたやうな思ひがした。今の蘭人の言葉は彼にとつては致命的な侮辱であつた。真赤な眼をして凍つたやうになつて、地図を穴のあく程みつめて居た。「名高くない小さい所は記入してないといふのか」彼はヤツとこれだけ言ふことが出来た。そしてキツト二人の蘭人を見つめた。蘭人達はあまりに変つた王の様子にタヾ恐ろしさの為に震つてばかり居た。そして「ハイ日本さへもこのやうに小さく出てるんですから」とやつと青くなりながら言つた。
謝源はもうだまつて居ることが出来なくなつた。そして妙にフラフラになつて「郭光※[#感嘆符二つ、1−8−75] 酒だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」といつた。郭光はあまりのことにボンヤリして「ハツ」と答へたが別に酒をついでやらうともしなかつた。「酒だといふに※[#感嘆符二つ、1−8−75]」郭光はこの二度目の呼び声にハツと気がつき謝源のグツと差し出した大杯に少しく酒を注
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